ささやかな決意が、でもうまく言えない

ささやかな決意がこの身に溢れ、またもう一度、歩き始めようと思って、じゃぶとんはみんなに支えてもらった日々を改めて感謝する。
ただし、今すぐに何ができるわけでもなく、とりあえず与えられた使命のように宿題のようなものたちに向かおうと思っている。
たとえばひとりのロックンローラーが、何度も何度も、われわれは何かをできるんだ、って叫んでくれていて、じゃぶとんはそれをYouTubeで何度も何度も見る。
叫びは叫ぶ。テレビがぼくらに向けてぼくらは何もできない存在なんだって言ってるけどそれは本当なのか、ってその喉から疑い続ける。じゃぶとんは泣きそうになる。
テレビなんか見てなくても、ぼくらは何度も絶望みたいなことをして、でも目の前においしいものがあれば、ぱくりと食べて幸せだから、いつもどおりに過ごしてしまう。
多感なときに、心からかっこいいと思った、あの人やあの音楽そしてあの言葉、エトセトラエトセトラに引っ張られて、
わたしたちはここまで転がってきて、何を為そうとしているのかしら、
もともとのあのかっこよさに近づくために、いろんな条件をくぐり抜けて、くぐり抜けるうちに、身につけたのは、くぐり抜けるちからだったとしても、
ねえ、ちょっと思い出してみれば、欲しかったのは、くぐり抜ける能力じゃないんだよ、
欲しかったのは、なんだったっけ、いろんなひとはいろんなことを教えてくれて与えてくれて、でもほんとうに欲しいものはあなたにしか分からないよ、だからそれでいいんだよ、与えられたものすべてを返せなくても、何も問題はない。

ささやかな決意がこの身に溢れ、すぐには毎日は変わらないと知っているけど、でも意志ってたぶんみんなが思ってるよりも大きく人生の配置を変えるから、じゃぶとんはできるだけ明確に自分の生活に現れてほしい状況を仮想として保持しようとする。少しずつ文体を変えていこうとする。背後では牛丸ありさ氏の歌声が流れ、うまく思考することができないから、私はこれでいいと思っている。たとえば、金銭が無限にこの手にあったら何をするだろうか。私はそれで完璧な人間を創造しようとは思わないが、これまで私を苦しめてきた経験を、できるだけ少なくしようとするだろう。それでも私は欲望を枯らさないだろう、私の苦しみはだいたい欲望からやってきているのだとすれば、私は欲望を枯らすことはないから、苦しみはなくならないのだろうか。だが、そんなことを考える時間は無駄だ、と言われるから、私は苦しんでいるのだ。笑ってしまう。非常にくだらないことだ。私の人生はくだらないことだ、という事実は少し私の心を軽くする。だって、それによって、くだらないと思えてるその心の余裕が、少しは自覚できるからだ。

ささやかな決意がこの身に溢れ、身をよじりたくなっちゃう、あんまり集中しすぎちゃあいけないんでね、まあ疲れてしまっちゃあ元も子もなし、元本一括払いセールに、ようこそお越しくだせえました。だがねあんた、命を燃やすか否か、これがいちばんだいじなことでっせ、あんたは何を恐れてるんで? どうせ自分自身が勝手に課した掟とやらにがんじがらめのガラガラポンでしょう、だいたい人間なんてそんなもんですわ、だらだら文句言うてる間に、ちょっとずつそのルールを破っていかなきゃならんのですよ、そうやってちょっとずつわしらは変わってきたんでしょうな、時代が変わりゃあ今までダメとされてきたことが当たり前になるんでさあ、まあ、もうちょっと、待ってりゃあね、あんたたちの時代が来るでなあ。笑っちゃうな、そんなもんでっせ、ほおら、もう日も暮れるしなあ、きょうも晩メシは塩サバだったらそれ以上のこたぁないさね。

ささやかな決意がこの身に溢れ、キスをしたいという思いが頭をもたげ、わたしは彼を見た。彼は、目の前の夜景の方を向いてて、わたしは早く彼を捨てたいのに、キスをしたいという思いを捨てきれない。この感情は何なのだろう。彼はわたしをいい気持ちにするけど、そんなに単純に信じていいのだろうか? わたしは夜景を見た。赤い灯りがちらほらとあって、なんだろうと思っていると、それはどうやら建物が燃えているようだった。わたしはつぶやいた。
「ねえ、あれ、火事なのかな」
彼は答えた。
「そうかもしれない」
その建物はわたしたちが同棲しているアパートかもしれない、そうだったら面白いなと思う。だって、わたしと彼の住む部屋には本当に最小限の家具しかなくて、それはたとえばカプセルホテルと変わらなくて、もし燃えたら違う部屋に引っ越すことは必然で、そうしたら新しい壁に囲まれてわたしたちの関係性も変わるかもしれない。毎日毎日キスばかりしていてそれでも何も進展のないわたしたちの関係性。わたしは彼を捨てたいけど、まだ分からないから続けているんだ。夜のさわやかな空気。ああわたしは息をしている。

ささやかな決意がこの身に溢れ、さまざまな人にその感触を伝えてみて、ぼくは本気なのかと問うた。それでもよく分からないけど、これまでの経験から考えるに、人生とは、つまらなくなってきたころが変わるチャンスで、そのときにハッキリと夢みたいなことでもいいから思い浮かべて、それに向けてちょっと大胆なくらいに一歩を踏み出すことで、あとで振り返ってもそう悪くはなかったなと思える日々がくるから、そういうふうにしてみようと、そう思っては、いる。こういうふうに言うと付け焼き刃のいかがわしい宗教みたいに聞こえるね。でもそんなにヤワなことをして生きてきたのではない、とか言わせておくれ。それなりに必死で生きて、いろいろあって、こんなぼくだっていろいろあって、そうやってつかんだ感覚なんだよ。あなただって本当は知ってるでしょう? ふつうに毎日を過ごして、呼吸を合わせて、無理をしないで話を続けよう。だって、本当は、よい瞬間には、ほとんどの場合に、わたしたちは言葉を必要としないのだから。そこの状態までいくために、言葉はある。

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