誰かひとりが見てくれてるからそれでいい
好かれようと行動したってそれによっては好かれはしないんだよ。
とぼくは言って、そうだね、と同意されて、ぼくはいいことを言えたと思って、それはぼくから出た言葉ではなくて、話すうちに降りてきた言葉だから、いま目の前のこの人と話せてよかった、とおもった。
なにも降りてなくたって、話せてよかったのだけど、思いもしなかった言葉が生まれるのだから、少なくとも稀有なことであり、こうやってまた言葉を捨てられない。でも、それでいいんだ。
noteをこうやって意外と続いてきてやっと、文体みたいなものが積み重なってこれでいいやって思ってそんなに推敲することもなく、でもそれでいいんだ。
タイミングが合ったら、もっといろんな人と話したいし、今は何も考えたくない、ツイッターでつぶやくだけでは足りない文字数を、こうやって埋めてみて、そろそろぼくもやるべきことをやらなくてはならない。
だって、好かれようと行動したってそれによっては好かれはしないんだよ。
ぼくらはじぶんじしんを奏でて、楽しんで、それで、愉快になってきて笑いだして、そうやって生きていかないといけない。
そうしたら、誰かひとりは見てくれているみたいだから、それでいいんだ、とおもう。すぐにはほめてくれなくても、当たり前に地球は回っていって、大丈夫、ちょっとはご褒美をもらえるでしょう、たぶんね。
焦らなくてもいい、スピードがいることなんて、何ひとつない! よく考えてみてね、ゆっくりやっていたら、すごく充実してくるよ。それですべてはつながってきて、あれもこれも欲しがって、そこからまたじっくりやってたら、捨てる必要なんてないのだ、と分かっているでしょう?
みんな実は分かってるんだ。生きていたら何も間違っていない。欲しがることは悪くない、急がなくても手に入るし、いや、急がないことで手に入る。それで、手に入った瞬間に全部みんなにあげるんだよ、使わないといけないよ。そうやって生きてきたんだから、間違ってない。
ぼくはあなたを見たい。ゆっくりと、奏でるあなたを。それだけを、待っている。少しずつ、変わっていって、よくなっていく。よし、大丈夫だ。
大丈夫でしょう? 笑って。
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