『海辺のカフカ』を読みました
村上春樹『海辺のカフカ』を読んで思うことをつれづれと書く。
ぼくとしては久しぶりに、いかなる利害関係もいかなる時間的制約もなく、小説の世界に入っていっしょに冒険できた時間だった、ぼくは村上春樹に感謝し、作中の登場人物たちに感謝したい、ぼくが印象にのこった言葉は「愛とは世界の再構成だからね」という意味のそれであった、なんとなれば、ぼくがthese daysに愛について思いを巡らせているからであろう。
15の少年が家出する、というのは、たのしい設定だ。ぼくもそのような物語を夢想したことがある、とここで思い切って告白してもよい。すぐれてフロイト的な筋書きが、なんとはなしに安心させてくれるものを感じた。村上春樹の文章はきれいである、しかし筋書きはそれほど清純ではない。と言っても正統派であるようにも感じる。
読んだ小説についてぼくはいま、そのほぼ直後に語ろうとしているが、やはりそれほど強く何かを言語化したいとは感じていない自分に気がつく。加藤典洋の海辺のカフカについての評論もざっと読んだが、おもしろかった。そうだそうだ、やはり村上春樹の小説にはBGMがあるのがよい。出てくる音楽をYouTubeで検索して聴きながら読んだりする、なんだかいかにもな読者として振る舞うことができてそれほど悪い気はしなかった。
ぼくは村上春樹をそれほど読んではいないものの、意外と読んでしまっている。この時代にニホンに生まれた者としては別にそれでよいのだと思う。カズオ・イシグロは抽象的なテーマから小説を構想するとNHKで述べていたが、その意味について、海辺のカフカを読んで思い当たることができたと思う。というのも、小説をいささか俯瞰的に読んでしまえば、小説内の人物を動かすテーマが分かった気がしたのである。それは特におもしろい読み方ではないかもしれないが。つまり、子どものころにはワクワクして読めていたのに、いまやオトナの視線で作品を感じてしまうというよくある嘆息の構図である。しかしそれでも、そういう視線を織り込み済みで笑えた部分もあったから、それは村上春樹も確信犯なのかもしれない、とは言え、どこまで計算されているのかなどは、どうでもよい問題だ。
ぼくは哲学書を読むよりも、小説を読むほうが安心する気はする。生きなきゃいけないのだという気持ちがデフォルトで装填されているようなニホンの小説しか読んでいないからかもしれないし、哲学書はいかに生きるべきかという問いがとても強く刻印されている気がしているからかもしれない、というかぼくは安心しているときに小説を読んでいるからかもしれない。安心しているときに読んでいるから、読んでて安心する、などと馬鹿げたことを言っていることになる。うーん、どうだろう、小説のほうが簡単だからかな。読みやすいのかな。読みたいときに読みたいものを読めばいい。
小説と言ってもいろいろあるしね。でも人間が動いているのはやはり考えやすいのかもしれない、海辺のカフカには抽象概念も人間として形象化されて登場していたし。物語というのは、リズムがある。すべての言葉にはリズムがあり、BPMがある。ぼくはそれを楽しんでいるのだと思う。心臓が鼓動を続ける限り、ぼくはリズムを求める。たぶん生物学的にそういうことだろうと思う。すみません適当なことを言いました。
題名にカフカ出しちゃうし、物語のところどころに古典を引用していたのは面白かった。しかしその小説世界は、なんだか作り物みたいだったから、引用される古典のほうが、現実味があって、いや結局のところは面白かったんだけれども。いまここまで書いてみて、週刊誌のコラムみたいな文体だなとふと思った。抑揚のないメリハリのない文章。視点の移動もない平坦な文章。唐突に終わります。おしまい。
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