皆既月食の日

正確になんて言えないから、正確に言う必要はないのだが、正確に言いたいという欲望が消えてなくならない限りわれわれは言葉を探し続ける。

換言すれば言語は性質上原理的に厳密性の永続化が不可能である故に論理的体系としての言語の整備は不要である、しかし人間が言語と思惟との一致という理念の創出を拒否しえない限りにおいて我々はその試行をも拒否できない。

皆既月食の日にぼくは、月食の写真よりも猫の画像のほうがみんなに「かわいい」という感情を抱かせやすいことを想う。猫の画像は何もしていないのにぼくたちはかわいいと思う、月は何もしていないのにぼくたちは月に地球の影を見ている、ぼくは何もしていないのに猫はかわいくて月は地球に隠される、そしてあなたは今何もしていない。わたしたちは何もしていないのに何かをしているような気になっている、それを見てみんな何かをしなければならないような気になっている、そして実際に様々な感情を動揺させ、全身の筋肉を収縮させ弛緩させ、血管を膨張させ収縮させ、体液を・酸素を・ブドウ糖を・白血球を、循環させ破壊し分泌し吸収し凝縮させ運搬し分裂させ生成する。これ以上ないほどに精密で複雑で弾力ある生命的有機体に我々は手を加えもはや生命的有機体は古代と現代とでは機能的に全く違ったものとして把握されているのではないか?

徐々に人体は我々自身によって改造されそれは遺伝子のなせる業であり遺伝子が遺伝子自身を改造するという非常にグロテスクな事態は地球上で平然と進行しそれをただ漫然と眺めせしまに感情は動揺し筋肉は収縮し心臓は拍動し電子機器は省電力かつ小型化されかつて葉緑体をもつ原生動物が我々の一部になった過程と類比的なそれを経て我々の身体と同居するようになる。

こころとからだとのつながりの境界は曖昧になり、ぼくらはどうやって愛を確認するのか分からなくなる。愛などという曖昧な言葉しか見当たらないことに驚愕しても、もう手遅れなのかもしれない。つまりわたしたちを不思議に結合させてしまうそんな危険な感情はもはや必要とされずわたしたちはただ穏やかに通信を交わし合うだけになるのかもしれない。ところであなたはどう思うか分からないがわたしはこう思う。おおげさな歴史観とちっぽけな幸福論は最大限に対立するべきだろう、と。ぼくは何もしていないのに歴史は流れ幸福はただそこにある。

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