抽象化のおかげで、こんなに具体的な生きることをぐだぐだと綴れるのだ(つれづれなるままに Part7)


小さなことだとしても、とてもめんどくさいことがあって、そういうことはなくならないから、ゆっくり考えていたら、その小さなことは小さくなくて、じぶんのとてもたいせつなところに響いているんだ、とわかってくるときに、新しい日々は始まる。
好きな人や好きな仕事や好きなものに囲まれていたら、ぼくは昔のことを思い出さない、時が止まっていて、ずっとそこにある気もちを感じているだけだから、それでいいと思う、だからみんなそうなっていたらいいと思う。
どうして苦しいことが起こるのか、と考えることなどなくなっていく。だから、迷惑をかけないくらいに、楽しいことだけをしていればいいのだ、と、言ってしまいたい。

ぐちゃぐちゃになったひとひらの言葉は自分でも何を言っているのかわからない、そういう言葉を生みたいがために今日も試している、ぼくの脳みそと手のひらを試している。秋の食欲はぼくの食べる量を自動調節してくれてそのおかげで今日も元気に生きながらえているのだと思うと、またしても宇宙法則の不思議さにやられてしまう。でもぼくは宇宙法則を理解していないから、ほんとうに驚くことができない。ぼくが憧れ始めた物理学者はだれだろうか、教えてあげようか、今度いつでも聞いてくれたら教えてあげる、きみはどこにいますか?

生産性のないぼくの性指向。ぼくは性指向ではない。だから生産性なんてハシタナイ言葉をよく使えるねえ、と言っているフーコーの声が聞こえる。ああ、フーコーはエイズで死んだ。ニーチェは梅毒っぽい症状で死んだ、三島由紀夫は割腹で死んだ。ぼくはそのうちのだれとも話したことはない。

こちらがわにはだれもいない。島のような、海のような、沖縄に基地を置いて、今日もくだらない議論を繰り広げる前に、3歳児のはじけるようなおしゃべりを見ている、かわいい、必死に、言葉を覚えていって、さあ、楽しんで、楽しませて、かわいい、仕方ないから相手をする、だから生産性なんてハシタナイ言葉は使わない、充実した、いろいろな景色が見たいだけ、よごれたくない、

「んでね、朝起きたの、そしたらね、うんちでるんだよ」

3年いきて、じぶんはうんちが出るのだと、認識して主張してお母さんを笑わせた、みんなそうやって、太陽といっしょに笑え、雲と一緒に流れろ、水と一緒に広がれ。
会いたい人がどこかにいるなら、あしたのことにしていこう、それはずっと続く息が望んでいることだとして、ぼくらは思い返す、波のように、あやとりのように。
ありもしない社会とやらを気にして、ありもしない理想に振り回されて、いとしい小石のように、ぽつんと座っている、あなたを浜辺に連れ出そう、恋い焦がれている北極星のように、きらりと光ってその瞬間に、すべてが明らかになる。

どう考えたって、もっとたいせつなことがあるだろう?

あなたがしっかりと普通に暮らして、ちょっといいことがあったときに、あんなくだらないおばさんやおじさんの話なんてほんとうにほんとうにほんとうにどうでもよいけど、困ってる人がいたら、そのときにちょっと助けてあげればいいじゃない?

もうちょっとだけ世界全体のことを考えたら、納得できると思うんだ。
だって何をやりたいかと聞かれることはもう飽きた。ぜんぶやりたいんだよ、若いからじゃないって。年老いたって諦めることはないよ、不老不死をめざしたらいいじゃない。空虚な言葉を吐き続けるよ、だってそれは許されてほしい。ぜんぜん許されてほしい。基本的に、正しさっていうのは、息をこらしてうんとこしょどっこいしょって造られてきたもんだから、敬意を表しつつも、もうね、砂場でやってたみたいに山創ってトンネル創って、そこに水を流したいんだよね。

そうなのよね、だからそこで、元気なやつが山を蹴り崩しに来る。愉快だ。

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