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自分の汚点と向き合うために素直になる

 私はつくづくINFPだ。この言葉で今回言いたいのは、自分はよく優しいと言われるけど、堂々と人のためを思って、いろいろ動けるほどやさしさや正義感はないよ、という話である。ENFJやINFJの人たちほどやさしくはない。年を経るにつれ、他人のために動く活動量に限界を感じ、「結局は自分の比重を重くしないと生きられない生物なんだな」と結論づくことが増えてきた。

 そんなINFP私でも、子ども時代、学生時代には、強い正義感を振りかざしてヒーローのようにふるまっていた時期があった。というのも、根は結局変わってないので、INFPが得意と言われている「擬態」である。昔からよく母親には、同世代の真面目な人、優秀な人、優しい人たちと比べられ、(INFJやENFJ、ESFJの振る舞いが求められてたと思われる)「まったくもう」と言われることが多かったことに起因するのだろう。家の中ではだらだら呆けて、いざ周りと接するときには、周りとの激しい衝突もいとわないくらいヒーローみたいにやっていた。INFPの人たちの学校時代は、おとなしく過ごしている人が多いと言われているが、私の場合は全く落ち着いてなどいなかった。

 とはいえ、しょせんは「擬態」でしかないので、仮初である。INFPの思想家としての一面を発揮し、あらゆる有名な人たちの言葉を噛み締め、子供らしからぬ正義論を実践しようとするが、これまた非常に疲れる。学校から一歩外に出れば、真面目に考えることはほぼなく、ふらふらと過ごしたり、休みの日は家に籠っていたり、あまり金のかからない当時最高の趣味である、音楽鑑賞に浸っていた。こうして自分に見合わないペルソナで学校を駆け回っていたが、所詮精神力も凡庸な学生であったため、ちょくちょくボロが出ていく。自分にも厳しくしていたつもりでも、ふとした隙に気がゆるんで悪行に走る。正義を振りかざして仲間に注意をするが、「じゃあお前はどうなんだ」と言われたらぐうの音も出ないのである。たびたび虚を突かれて問題となり、そのたびに自分を責めるが言い訳の言葉も出ず、周囲からは落胆されたり、裏切られた気分にさせてしまったことは何度もあっただろう。なので、修羅場の経験回数だけは人並みではないのだろう。ただし、修羅場を正しく潜り抜けることができるのかと言えば決してそうではないとだけ言っておく。こうした修羅場を経たおかげで、最初は友人が多いものの、進学や就職でコミュニティが変わっても付き合い続けてくれる人はほとんどいなくなっていく。唯一続いていると言えば、保育園~高校まで同じところに通っていた唯一の親友Aだけだろう。彼は私の弱点をこの世で一番多く知っているのではないかと思われる。つまり、彼自身が私の最後の砦である。

 こうしてINFPらしからぬ、落ち着きのない波乱の学生時代を過ごしたものの、実家から離れたり、自分に向き合う機会や周りの人に恵まれたおかげで、すこしずつ自分自身の性格との折り合いがついてきているように思う。とはいえ、「擬態」なしでは仕事ができないのではないかという不安が未だぬぐえないため、再休職に至ってしまったのではないかと思われる。

 ただ、いろいろな自分の限界を見つめてきたことで、今大事にしたほうがいいと思っていることが出てきたので、今回はそれを書きたい。(バックボーン長すぎてすみません…)それは、「自分の汚点と向き合うために素直になる」ということである。言い換えると、「自分に嘘をつかない」。アニメの有名なセリフみたいになってきてしまった。

 これまで長らく「擬態」をして生きていく過程で、自分の理想像と、現実の自分が乖離した数々の「汚点」について、自分の中で取り消したり、自分の素直な感想を飲み込んで理想の言葉を自分に言い聞かせたり、周りには見せるものかと必死に隠してきたりしていた。これでは息苦しいし、何より、リアルな今の自分がだんだんわからなくなっていってしまうのである。「擬態」していた自分の理想で、何がしたい、何が問題なのか、などは語れるが、「擬態」が崩れてしまうと、途端に何も言葉が出てこなくなってしまうことが多々ある。本音が奥底から出てこない状態が板についてしまう。これでは、自分がどういう状態なのかもわからないし、自分が何者なのかもわからなくなってしまう。
 このような状態を改善するために、なるべく、ふとした「本音」を隠さない、「素直」であろうと思う。人間ふと息が切れたとき、あるいは余裕がなくなってくると、つい本音が漏れてくるものである。元気に働いていた時は、本音がほとんど隠されていても、今回休職に至るまで追い込まれたおかげで、少しずつ本音がこぼれてくるようになったと思う。この状態をいい意味で継続したい。もう崩れる前の「擬態」だらけの自分には戻りたくない。

 ただ、今回言っている「素直」というのは、もちろんポジティブな気持だけではなく、ネガティブなものも含む。というか、正直ネガティブのほうが割合が多い。人間の「本音」というのは大半がネガティブだろう。理想として、だれも傷つけない発言を目指していく、それは非常に大事なことで素晴らしいことだが、今の時代の人間はそんな神めいたことはまだできないと思う。悪意を全く持たない発言や文章でも傷つくことはざらにある。今回休職し、自分と向き合ってナイーブになったり、感覚が過敏になってしまったおかげで、謎に傷つくことが増えてしまった。日に寄るが、精神疾患を乗り越えてきた人たちの文章や、悩みに寄り添う文章でさえも、読んでしまうと重くのしかかって感じたり、外で元気に遊ぶ子供たちの声や物音が脳を突き刺すように聞こえたり、ただ優しい人が話しかけてくれたのに、その話し声も普通にきれいな声なのに、その話し声すら煩わしく感じた日もある。なので、だれも傷付けないことを諦めるわけではないが、気を引き締めすぎないようにしたいと思う。
 なので、私のnoteでも、周りの意見や出来事にネガティブな感想を持った時には、「素直」に言っていこうと思う。どれだけ素晴らしいアーティストでも、ネガティブな感想を持ってしまったら、その気持ちを発信することもあるかもしれない。しかし、気配りのかけらもなく、ただ痛烈に批判するのは自分の信条に反する。これでもINFPですので。気配りはせずにはいられない。ネガティブな「方向性」だけ大事にして、その言い回しや説明には気配りながら生きていこうと思う。

 こうしてネガティブな面でも「素直」になることで、自分の汚点を認められるようになっていけたらいいな、と希望を抱いている。最後に、ネットで誰でも発信できるようになった社会で、ネガティブな投稿がどうあるべきか、みたいなところはかなりセンシティブだと思うので、私のスタンスもよくない場合もあるかと思う。修正していくべき時には修正していきたい。

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