見出し画像

栗駒山の湿原と池沼



1. はじめに

栗駒山では標高 700mから1400mの広い範囲に湿原が点在しています。栗駒山に限らず、日本の山地の湿原は降雪量の多い第四紀の火山地域に集中しています。豊富な湧水があり、水はけの悪い平坦地が出来やすいからですが、東北の 1,000メートルを越える主な山は、湿原が発達する条件を持つと言えます。栗駒山の他には蔵王や月山、秋田駒ヶ岳、八幡平などにまとまった湿原があります。図1に栗駒山の湿原と池沼の水平分布です。栗駒山全体で見ればその分布は一様ではありません。それぞれの湿原の雰囲気も異なっています。

ここでは、いままで行った栗駒山の湿原や池沼の踏査を、次の6つの区域に分けて整理しました。踏査日はそれぞれ異なり、沢の源頭や支流の湿原は1989~1992年に沢の踏査で訪れました。1993年に栗駒山の特集の一環として湿原をまとめることになり、未踏査だった道路や登山道に比較的近い湿原をまとめて歩いてみました。

図1.栗駒山の湿原と池沼分布図

(※以下の番号は図1に対応)

2. 秣岳西方の湿原

秣岳西側の田代沢は、国道 398号線付近で大きく蛇行し、ここは秣岳から流れた溶岩流末端の下側の、火山泥流に覆われた緩傾斜地です。この田代沢流域には田代沼北側と小田代沢源頭にヨシ湿原があります。田代沼の北側約1.5km の凹地にも沼があり、道路標識には田代沼と書かれています。宮城県側では麝香熊沢支流の赤沢にも湿原があり、溶岩流末端上には西方浄土とよばれる比較的大きな湿原や板井沢支流にC930湿原があります。

図2.田代沢および秣岳西面概念図

A-1 田代小屋湿原と田代沼

花山峠を越えて国道 398号線を秋田県側に入ると、田代沢の手前で山側に鳥居が立っています。ヤブっぽい道を少し入ると見事な杉の巨木があり、根本にには厳重に鍵がかけられた小さな祠があります。かつての羽後岐街道はここを通過し、ここには「田代の御助小屋」が建っていました。

地形図にある田代沼の隣にある湿原は、小屋跡のすぐ南側にあります。6月上旬に訪れたとき、湿原のほとんどをコバイケイソウの若芽がぎっしりと覆っていました。沢沿いにはミズバショウが多く、わずかに盛り上がった中央部にリュウキンカが黄色い花を咲かせています。ヨシの枯れた茎がたくさんあり、しばらくすれば一面ヨシに覆われるのだろう。

田代沼

沢沿いに登って行くと、すぐに田代沼に出ます。池の北側にはミツガシワがあり、周囲はネマガリのヤブです。南西の岸が草原状になっているのが見えます。享保14年(1729)年、田代長根とよばれた県境付近に仙臺領と秋田領との境を示す塚が設けられました。痕跡がないかと西側の国道に向かってヤブを漕ぎましたが旧道の跡すらありません。

A-2 小田代沢上田代

花山峠から1kmほど秋田県側の国道沿いには、小田代沢源頭のヨシ湿原が見えます。地形図上の湿地記号と思いましたが、よくみるとその上流の緩傾斜地でした。とりあえずここを上田代として降りてみると、枯れたヨシの間からミズバショウとリュウキンカが咲いていました。

A-3 小田代沢下田代

下田代は国道から見えません。小田代沢沿いに降りる林道に入るとやや黒ずんだ湿原が見えます。周囲は伐採のために疎らに樹木が残るだけです。あとから植林した杉に阻まれながら近づくと、黒ずんでいる理由がわかりました。残雪の消えた直後だったために、高さ50~60cmのハイイヌツゲの葉が黒くスス状に汚れてたのでした。周囲から内側に約10メートルはこのハイイヌツゲに覆われています。ヨシ湿原であることを確認しただけで、突然の雷雨のために横断はあきらめた。

A-4 板井沢支流C930湿原

溶岩流末端上にあるヌマガヤ湿原で、地形図には板井沢支流のC930m付近に湿地記号が記され、すぐ近くを林道が通っています。小田代沢の湿原を訪れた日でしたが、途中で残雪に阻まれました。

沢に入るとヤブがうるさく、二回目の蛇行の途中で左岸にあがり、池塘がある小さな湿原にでました。雪が融けた直後で、ちょうどショウジョウバカマが一面に咲いています。ここもハイイヌツゲの進出が著しく、もともとの湿原の輪郭すらわかりません。特に中央はヤブで分断されていて、足元のミズゴケで辛うじてつながっています。先程の小田代沢下田代と同じように、周囲の伐採が原因で湿原の乾燥化が進んでいることは素人の目にもあきらかです。

地形図の湿地記号に較べて小さいので、下山後に空中写真で確認すると、沢の右岸にも湿原があるようです。

A-5 西方浄土

この湿原も溶岩流末端上にあるヌマガヤ湿原で、比較的大きな湿原であります。秣岳山頂からもこの湿原の西端が見える。名称は西丸震哉氏の命名に従いました。

秣岳の北側にある県境沿いの登山道(※現在は廃道)から入りましたが、途中で沢が途切れてしまうのでわかりにくいです。また、湿原は沢床から2m程の高さがあるため、湿原独特の壁全体から滲みでる水に気がつかないと通り過ぎてしまいます。東西方向に長さ約 250メートル、幅約50メートルのほぼ平坦な湿原で、中央部に直径10mの池塘があり、ほぼ地形図通りの形です。南側に細長い帯状にのびる部分があります。快晴の9月下旬だったので、黄金色に輝く草原とリンドウの紫がきれいでした。

西方浄土

A-6 麝香熊沢支流・赤沢湿原

地形図上に湿地記号が記されてあり、麝香熊沢支流にあたる赤沢の更に支流にあります。しかし、こんなヤブ沢にも釣屋のゴミが捨てられているのには参りました。

小沢は湿原に近づくと極端な蛇行がはじまります。蛇行が終わって通り過ぎたことを知り、上がると直径10メートル程の暗い感じの池があります。6月の岸辺の枝にはモリアオガエルの卵がすずなりにぶらさがっていました。湿原そのものは大部分が灌木に覆われています。花が咲いていたウラジロヨウラクしか記憶に残っていません。中央に三日月型の池塘があり、ここにもモリアオガエルの卵がぶら下がっていました。赤沢に抜けるためにヤブを漕ぐと、すぐ上にはミズバショウの群落がありました。

赤沢湿原

3. 秣岳~御駒ヶ岳の湿原

秣岳から御駒ヶ岳にむかって稜線を歩くと、田代沢源頭や C1400mピークからの下りにまとまった草原が見えます。その中に湿原がいくつかあります。冬の間に季節風をまともに受ける秣岳一帯は、植物の成育条件が最も厳しいのかもしれ ません。栗駒山がブナに覆われる前に広く分布していたアオモリトドマツもこの稜線付近にだけ残っています。稜線付近には、他にも麝香熊沢源頭や小桧沢源頭に湿原があります。

図3.秣岳から御駒ヶ岳

B-1 田代沢湿原

1990年、栗駒の会山行に田代沢を選んだことがあります。田代沢の傾斜が急に緩んだところで右岸に上がると、直径6m程の池塘があり、周囲が赤いモウセンゴケに覆われてきれいでした。田代沢源頭は稜線まで草原となって続いています。この湿原はあまり大きくはなく、更に一段上の尾根上に上がると、池塘のある湿原にでました。秣岳南西の尾根上で C1360~70mのコンターが緩んでいるところです。ヌマガヤの間にタテヤマリンドウの小さな花がたくさん咲いていました。

B-2 秣湿原

秣岳から御駒ヶ岳側に50m程下った鞍部にある湿原で、中央を登山道が横断しています。標高1375m付近であるから、栗駒山の湿原としては最も高い位置にあります。湿原の印象も他の湿原とは異なり、カワズスゲやイヌノハナヒゲなどのカヤツリグサ科の植物が多いためにすっきりしています。

さらに岩塊が散乱するピークを過ぎると、広い草原が広がる。直径60cmほどの島をもつ浅い池があり、西に下るとミズゴケが多くなる。湿原だったものが草原化したのかもしれない。草原の南端にも浅い池があります。

B-3 麝香熊沢湿原

地形図上には湿地記号はありませんが、秣岳と御駒ヶ岳の最低鞍部にある小ピークから麝香熊沢源頭にパッチ状の湿原が見えます。麝香熊沢を溯行して訪れると、麝香熊沢右俣の右岸支流に沿って三段に分かれています。この湿原の下流にも直径30m程の小湿原を見つけました。C1240m付近の下段が一番大きく、ややヨシが多くヤブっぽいがいくつかの池塘があります。蛇行する小沢にかぶさるヤブが非常に煩くて散々な目にあいました。

麝香熊沢右俣の湿原

B-4 小桧沢湿原

須川十字路から湯浜コースを下ると虚空蔵山の西北に草原があります。小桧沢源頭の右岸の斜面に約400 メートルもつづいています。安易に設けたプラスチック製の歩道が変形しているため、非常に歩きにくい場所でもあります。ここは傾斜がきつすぎるためか湿原にはなっていません。

この草原から登山道を少し下ると小桧沢支流の源頭が湿原になっています。直径40~50cmの池塘がいくつかあり、浅い池塘にはミツガシワやヌマハリイなどがあります。湿原上には枯れたイワショウブやキンコウカが残っています。上の大草原に較べて傾斜がやや緩いのと、水流が地表を常に濡らしているために湿原化したのでしょう。このあたりから見える栗駒南西面の広大なブナ林は気持ちがいいです。

4. 東栗駒および笊森周辺

東栗駒から栗駒北側の磐井川本流にかけては、規模の小さい湿原や池が散在しています。東栗駒周辺の踏査が完全ではありませんが、新湯沢源頭には豊富な残雪による草原が広がっていて、中央コースから池塘のような池がいくつか見えます。『やまびと29号』の報告では東栗駒山南面の新湯沢支流にも湿原があるようです。また、空中写真では裏掛けコース C1220mピーク東に湿原が確認できます。これらは今後の課題として残っていますが、以下にドゾウ沢から磐井川本流にかけての湿原と池沼をひろってみます。

図4.東栗駒から笊森周辺概念図

C-1 ドゾウ沢湿原

ドゾウ沢および産女川の源頭には、豊富な残雪のために草原がよく発達しています。この間の尾根上 C1285m標高点の上に池塘をもつ湿原があります。

ドゾウ沢左岸の支流をつめて訪れたが、予想よりも早く水流が消え、強烈なヤブ漕ぎをすることになりました。池塘は11個あり、浅い池塘のなかにはとり残されたような島があります。濃いガスの中でしたが、池塘のまわりの赤いモウセンゴケが印象的でした。湿原からドゾウ沢源頭まで草原が続いています。この湿原は空中写真を見てわかったもので地形図のコンターだけでわからなかったでしょう。

C-2 笊森湿原

瑞山コース C1045m付近にある湿原で池塘はなく、ウラジロヨウラクなどの低灌木の侵入ががめだつヌマガヤ湿原であります。登山道にかかっている湿原の北端から東へヤブを漕ぐと、更に円形の湿原があります。

沢から訪れるとすると、西桂沢から右岸支流を詰めることになる。水線をきちんと入れずに源頭が湿原と思い込んでいたら、身を没するネマガリのヤブに入り込み、メンバーから冷たい視線を浴びたことがあります。なお、登山道を少し下ると手水鉢のような面白い岩があります。

C-3 石滑沢小湿原

一ツ石沢のC750m付近に造瀑帯があり、この沢で唯一のゴルジュ帯があります。右岸から6mの滝になって入る支流を「石滑沢」と勝手に呼びましたが、地形図にはこの支流の先に書かれた湿地記号があります。

ナメ床の小沢をたどって行くと、水流はヤブの中にかくれます。右岸のヤブをさんざん漕ぎまわった末、偵察に登った木の上から見つけました。予想よりずいぶん小さい直径20m程の円形のヨシ湿原で、ヨシは人の背より高く伸びています。しかし、足元のモコモコしたミズゴケがやけに鮮やかで、雨の中でも明るい気分でした。

一ツ石沢支流・石滑沢小湿原

数年後、スキーで笊森から西桂沢左岸の尾根に滑り込んだことがあります。葉の落ちたブナ林の中に、ポッカリと白く開けたこの湿原が意外に大きく見えました。

C-4 一ツ石沢右俣小湿原

一ツ石沢右俣をつめると尾根上の C1187mピーク南側に出ます。水流は平坦な尾根上にしばらく続いていて、右岸の湿原特有の水がしみだす黒い壁を見つけました。そこを這い上がるワタスゲが点々とあるだけの地味な湿原にでました。磐井川本流と左俣を分ける尾根が立派に見えて景観は悪くありません。

沢はこの湿原の先ですぐ終わり、あとは強引なヤブ漕ぎで笊森避難小屋付近の C1399mピークにでます。途中で、尾根の左側に大きな凹地がありますが、中央に岩が点在するだけで、湿原にはなっていません。

一ツ石沢右俣の小湿原

C-6 磐井川源頭の双子池周辺

笊森避難小屋から須川温泉に向かって瑞山コースを歩くと、途中の栗駒山分岐点に小さな池があります。1/25,000地形図には西側にも同じような池があり、岩手県の須川街道調査報告書で「男沼女沼」と呼んでいるのはこの池だと思います。

同じ磐井川本流の左岸尾根で C1300m前後に二つならんで書かれた池を「双子池」と仮りに呼びます。磐井川本流を溯行したとき、沢通しに夏道に出るのもつまらないので、この池をめがけて支流に入ったことがあります。左岸支流に入って、水深50~60cm程の浅い池に出ました。低い灌木に囲まれていますが、東側が開けているので明るい感じがします。下側の池をめざすと50m程下に凹地が見えました。底は湿原状になっているので、一年じゅう水は涸れているようです。ヤブ漕ぎに疲れていたので、上から写真を撮っただけで引き返し磐井川本流へ下ると、池の水は勢いよく地中から吹き出していました。

磐井川本流の左岸尾根

男沼女沼の分岐から栗駒山の間を歩いたことがなかったので、1993年秋の裏沢湿原の帰りにまわってみた。雨の中、池のある分岐点から栗駒山に向かうと、左の沢状に向かう踏跡があります。見ると沢状の窪地に細長い湿原があり、池塘が3つ程見えました。しかし、地形図に書かれた C1410mの池はガスでわか りませんでした。

C-7 ロプノール

1/25,000地形図にもあるこの池は、瑞山コース C1021m付近から産女川側に半島のように張り出した尾根上、C907mピークの南側にあります。地形図ではこのピークは単一であるように書いているが、実際は土手状の3つのシワです。しかも、尾根に対して45度ずれているので騙され ました。

D-6 龍泉ヶ原

栗駒山でもっとも美しい景観の一つは、御駒ヶ岳から見た龍泉池の池塘群だと思います。御駒ヶ岳の北斜面と剣岳から続く緩い尾根にはさまれ、東西 600メートル、西側の最も広いところで約 120メートルの幅があります。剣岳一帯の帯状の噴出によって出来た栗駒最大の湿原です。小仁郷沢上部には真っ黒な溶岩が露出しています。

戦後間もない頃に栗駒を歩いた西丸震哉氏は、この湿原を「おどりば谷地」と呼んでいます。秣岳から眺めると、ゆったりした御駒ヶ岳と仁郷沢源頭の中間にある、つまり踊り場にある湿原なのでしょう。一直線に上がっている小仁郷沢は階段にも見えます。

小仁郷沢を詰めてゆくと、急にまわりが明るくなって池塘が散在する湿原にでます。6月中旬であれば、イワイチョウの丸い葉の間にイワカガミやハクサンチドリ、タテヤマリンドウの花が見れます。低灌木ではウラジロヨウラクとイヌツゲが目につきました。龍泉池は直径20~30mの大きな池で、ミズゴケに覆われた縁はツボ型に落ち込んでいます。まさに典型的な池塘ですが、この湿原の他の池塘が全て浅いことを考えると、なにか構造的な成因の池と思われます。

小仁郷沢の源頭は龍泉ヶ原の中央を蛇行しながら横断し、緩やかな分水嶺で消えます。県境は分水嶺からずれています。他に、隠れ龍泉ヶ原と中央部で御駒ヶ岳側から流入する小沢があります。湿原の中央には、白いヒナザクラが直径1メートル程の群落を作っています。ガスの中に点々と見えるその白い塊が幻想的な風景を作っていた。しかし、ここに来るのはこれで終わりにしようと思わせる痛々しい踏跡が、真っ直ぐ昭和湖に向かって続いています。

御駒ヶ岳から見る龍泉ヶ原

D-7 隠れ龍泉ヶ原

龍泉ヶ原の西側 C1379ピーク南側にある湿原で、龍泉ヶ原より標高が30m程高くなっています。流入する沢はなく、龍泉ヶ原に通じる沢の出口は分厚いミズゴケに覆われています。東西に遮るものがないので開放的で明るい湿原です。無数にある大小の池塘はいずれも深さが10~20cmの浅いものです。西側に下った小仁郷沢支流にも、腎臓のように2つ並んだ湿原があるようです。

D-8 名残ヶ原とその周辺

名残ヶ原はすでに須川の遊歩道の圏内であるため、いつも足を早めて通り過ぎた記憶しかありません。乾燥化が進んでおりヨシが目立ちます。名残ヶ原から流れるゼッタ沢支流には、隠れた湿原がいくつかあるようです。この沢の上流の八幡山の下にも湿原があります。

D-9 硫黄ヶ原

須川コースを下ってくると、昭和湖の手前で三途の川左岸に広い湿原を見ることが出来ます。地形図で見ると、昭和湖と C1314ピークをはさんで東側の池記号の位置にあります。すぐそばのゼッタ沢源頭は亜硫酸ガスが吹き出していて立ち入り禁止の所で、湿原にいても風向きによっては硫黄の臭気があるので、勝手に硫黄ヶ原と呼んでいます。

湿原は南北に長く、形は細身の瓢箪に似ています。池記号が上のふくらみにあたり、全長は約 300メートルあります。三途の川から詰めて行き、沢から薄いヤブを10メートルも漕ぐと湿原の東側に出ます。池記号はミツガシワに覆われた浅い池塘で、真っ赤になるほどのモウセンゴケに縁取られています。

瓢箪のくびれたところにイモリのいる小さな池があります。ここから下の緩傾斜面は、直径1~3メートルの池塘が散在するヌマガヤの傾斜湿原になっています。7月中旬に訪れたときに栗駒で初めてサワランを見ました。排水路はゼッタ沢側で、笊森コース分岐にある小湿原付近のようだ。

硫黄ヶ原、遠くに焼石が見える

D-10 裏沢湿原

ゼッタ沢と三途の川にはさまれた硫黄ヶ原と同じ尾根にあります。地形図で見ると C1232ピーク下部に沢が流れていて、草地記号が書かれています。登山道から C1232ピークに向かってヤブを漕ぎ、尾根から急降下すると急な草原にでる。ひとつやぶを潜るとミズゴケのある湿原になりました。支沢の右岸が 200メートル以上も湿原になって続いています。傾斜は急で、湿原の幅は20~30メートル程しかありません。途中で右岸上部の直径40メートル程の平坦な湿原にかろうじてつながっています。この中央と北端に池塘があります。10月初旬だったの湿原にはウメバチソウの花だけでした。

裏沢湿原

帰途は藪をトラバースして三途の川に降りてから登山道に戻りました。とりあえずこの湿原があった支流を裏沢と呼ぶことにします。

剣岳西尾根の池沼群

龍泉ヶ原の北側には剣岳から西にのびる幅の広い尾根があります。1/25,000地形図からは、この尾根の中央に沢状の凹部が読み取れます。スキーで龍泉ヶ原を訪れたときにも、この凹部が連続しているのが見えました。大きな岩が点在していることから、この尾根全体が帯状に噴出したようにも思えます。

1990年8月に行った踏査では、合計11個の凹部を確認しています (『やまびと31号』(p.86)図9参照) 。このうち、剣岳(C1397ピークの南西峰) のやや南にある池記号(3号の池) は地形図にも記載されています。昭和6年に発行された『宮城縣名勝地誌』には「南北三十米、東西二十米、深さ十米」とあり、剣沼と呼んでいることが書いてあります。 西丸震哉氏は航空写真で見た印象から「竜の足跡」と付けていとますが、無雪期には訪れていないようです。

昭和湖周辺

昭和湖は1944年11月20日の活動によって生じた火口湖であります。噴火以前の地形図では、昭和湖の位置に湿地記号があり、周辺の地形はあまり変化がありません。従って、いわゆる噴火というよりも、泥土が吹き飛ばされたあとに水が溜まったのだと思われます。昭和湖の北側と東側には池塘が残っています。周辺の剥き出しになった砂礫の上にも、よく見るとイワイチョウやワタスゲ、モウセンゴケがたくさんあります。ゆっくりですが再び湿原化に向かっているのかもしれません。

6. 須川温泉周辺の湿原

須川温泉の雑踏にまぎれて影が薄くなっていますが、須川湖に向かう道路や野鳥の森周辺にも湿原が点在しています。かつて菅江真澄が『駒形日記』のなかで「大谷地のぐちゃぐちゃした道をふみぬかりながらきて」と書いたのもこれらの湿原のいずれかでしょう。西丸震哉氏もこの周辺を踏査していて、『山とお化けと自然界』 (中公文庫 ニ-66)に概念図を掲載しています。ここでは主にそこに記載された湿原の名称を使いました。 (概念図は図5を参照)

E-1 東のかくれ谷地

1/25,000地形図では、県境の C1005標高点付近に池記号のある湿原です。野鳥の森入口に車を停めて東に向かってヤブを漕ぐと、地竹採りの踏跡が湯尻沢側のもう一つの湿原に続いているようです。適当なところから再びヤブに突入して湿原南側にでます。

直径30~40メートルのほぼ円形の湿原で、三日月状の池塘がぐるっと南側を取り巻いています。面白いのは途中に突き出した浮島状の半島です。中央側で1m程切れていますが、渡れるかと体重を先端にかけるとズブズブ沈観ます。中央にも2つの池塘があり、湿原全体がミズゴケで盛り上がっています。6月中旬の雪解けによる地下水が豊富な時期では、足の甲が水に没するモコモコしたミズゴケでした。

東のかくれ谷地

E-2 西のかくれ谷地

野鳥の森入口から赤川を渡ってすぐの湿原で、地形図には2つの池記号があります。実際に行ってみると、この池は水路でつながっています。湿原の大部分はこの池が占めていて、水は非常に澄んでいます。南西側にある丸い池塘から湧水がながれ込んでいるせいでしょう。

E-3 下の淋原

野鳥の森の歩道を西に向かうと、左側にミズバショウの大群落があります。地形図ではC990標高点のあるところで、須川湖に向かう道が分岐しています。下の淋原は、歩道の反対側に広がる長さ 160m程の湿原で、池塘が非常に多くあります。低灌木の侵入が多いので、あまり広さは感じられません。訪れた6月中旬はミズバショウが多くあり、歩道は仁郷沢にそのまま続いているようでした。

下の淋原

E-4 上の淋原

下の淋原から須川湖に向かう歩道を少し行くと更に大きな湿原にでます。西丸氏の概念図には湿原のマークだけで、特に名前はふっていません。元になった『山だ原始人だ幽霊だ』の挿絵で「下の淋原」と書いていところが、文庫版では「淋原」となっています。下があるのだから、ここはやはり上とするのが適切でしょう。一人でこの湿原を見ていると淋原という名前がぴったりきます。

木道から見ただけではこの湿原の全容が見えませんが、空中写真で見ると東西に長さ 400m近くある大きな湿原です。歩道のある東側と反対の仁郷沢側に池塘が点在しています。誰にも会わない原は、須川温泉周辺の雑踏に較べるとあまりにも静かです。足元には薄紫色のタテヤマリンドウがたくさん咲いています。西丸氏が見たこの湿原の風景は、人為的な痕跡などなかったでしょうから、羨ましいと思います。

E-5 だんだん谷地

淋原から赤川の野鳥の森入口置いた車に戻る途中、歩道の北側のヤブ越しに湿原が見えたので降りてみました。融雪直後のビチャビチャした湿原は、池塘が段々畑のよう下まで続く典型的な指紋状パターンを示しています。

湿原の上部には深さ5~10cm程の浅いくぼみがたくさんあります。たぶん融雪期だけなのでしょうが、そこにも水が溜まっています。いずれこの小さな凹部が植物の成長差を助長し、下側のような湛水シュレンケに発達してゆくのでしょう。

だんだん谷地

E-6 河原盆地

栗駒有料道路の須川温泉側ゲート付近からグラウンドのような裸地があります。最近になって公園として整備(?) され、西側の池塘のある湿原に木道が敷設されました。しかも、裸地には「芝生」が植えられています。河原という名前を付けたところから、土砂の流入は以前から続いていたと思われます。

E-7 ツンドラ湿原 (泥炭地)

須川湖の近くに「泥炭地」と書かれた道路標識があり、道に沿って 250m程入ると比高3メートル程の泥炭層が露出しています。泥炭地と湿原は同義語で、泥炭地の植生に着目する場合が湿原です。この湿原の場合は泥炭層が主ということになる。『栗駒国定公園および県立自然公園旭山学術調査報告書』 (1983年宮城県保健環境部環境保全課) では、道路標識にある泥炭地をツンドラ湿原と記載しています。1986年に初めて訪れたときには、泥炭層が見えるだけでした。最近は上の湿原まで木道が敷設されたため、湿原の構造を立体的に見ることができる。

しかし、どうして泥炭層が露出しているのでしょうか。『尾瀬ヶ原の自然史』に次のように記載されています。「水素イオン濃度が 3.0~3.4 の火山性の湧水によって沼鉄鉱床が形成され、その西半分は1958年頃まで採掘されていた」。意外にも人為的なものだったのです。

7. 世界谷地湿原

世界谷地湿原は、栗駒山の寄生火山である大地森と揚石山、秣森の鞍部にひろがり、大小8つの湿原で構成されます。世界谷地の名称は、もともと「西花谷地」とよんでいたものが転訛したものです。栗駒を代表する湿原として観光化が進んでいて、下田代を第一世界谷地、上田代下谷地を第二世界谷地と呼んで木道を敷設しています。一方では揚石山と川原小屋沢源頭部で大規模な伐採が行われています。これらは、世界谷地湿原の植生に少なからず影響を与えているのでしょう。

宮城県では昭和57~58年度に世界谷地湿原の学術調査を行い、『世界谷地湿原学術調査報告書』 (1985年世界谷地湿原学術調査委員会編) を発行しています。したがって、栗駒の湿原では最も且つ唯一情報量が豊富な地域です。

図6.世界谷地湿原概念図

F-1 第一世界谷地

第一世界谷地は標高 670mに位置し、三迫川支流冷沢に注いでいます。東西約 350メートル、南北の最も長い所で約 200メートルあります。しかし、木道のある中央部にはサラサドウダンやハイイヌツゲ等の低灌木やネズコの侵入が著しく、実際の広さに較べて狭く感じます。

第一世界谷地から大地森

F-2 第二世界谷地

第二世界谷地は標高 695mに位置し、同じく冷沢に注いでいます。南北約 400メートル、幅約60メートルの細長い湿原で、ここ数年の間にほぼ縦断する木道が敷設されたようです。湿原からは、大地森の横に御沢源頭が独特な角度で見えます。『栗駒山紀行』の挿絵で、上遠野秀宣が「御ヤマカクノゴクトニナナメニ見ユル」としたのは、この湿原から見ているのではないかと想像します。世界谷地湿原の分類は中間湿原 (ヌマガヤ湿原) ということになっています。場所によってはヨシが混じっていたり、ミツワガシワが見られます。7月に咲くニッコウキスゲが地元では宣伝されていますが、混雑を嫌っていまだに見たことがありません。

8. 栗駒の湿原について

湿原が発達するためには一定の水湿条件が必要で、その景観はそれぞれの湿原の時間的または空間的な区分によって異なります。栗駒の湿原について、それぞれの要素がどのように作用しているかを以下にまとめてみます。

8.1 湿原と泥炭地

森林に対していう草原の水湿の状態は、全くの水から乾燥状態まで連続的に存在します。ある水湿条件では森林植物の成育がさまたげられ、貧栄養性の条件で成育可能な種に占められます。その状態を人が認識して、ある景観をもった草原を湿原とよんでいます。通常、枯死した植物に含まれる炭素は微生物の活動などにより炭酸ガスなどに分解されます。湿原では低温過湿などのために微生物の活動が阻害され、ある程度分解されたところで泥炭となって堆積すします。この泥炭に着目した用語が泥炭地であり、湿原は泥炭地の植生に着目した用語ということが出来ます。沢から湿原にはい上がるところには、水がしみだす独特の壁があるのでわかります。ただし炭とはいっても赤褐色で、水で泥を落とすと植物繊維が残ります。須川湖のそばの「泥炭地」では3メートル程露出した泥炭層を見ることができます。泥炭地は一般に酸性を示すので、さらに微生物の活動が抑えられ、成育できる植物が限られます。

8.2 湿原の時間的な区分

一般に湿原は、地下水面に対する表層的な関係から高層湿原、中間湿原、低層湿原という分類がされます。低層湿原では水が地下水と地表水で涵養されるため、比較的富栄養性の植物が成育します。泥炭の堆積が進み地表が地下水面より高くなると、水は天水が占める割合が高くなるり、貧栄養性のミズゴケ類を代表種とする高層湿原になります。中間湿原はこれらの発達過程です。いろいろなパターンがみられ、主体になる植物はヌマガヤです。これらは湿原の時間的な発達過程で分類されています。しかし、私たちが湿原を歩いたときに地下水面を意識することはありません。それぞれの代表的植物からヨシ湿原、ヌマガヤ湿原、ミズゴケ湿原と区分し、景観上と一致しています。

栗駒の湿原についてみるとほとんどがヌマガヤ優勢の中間湿原で、ヌマガヤ湿原と呼んで大きな間違いはないでしょう。小田代沢源頭付近の湿原や一ッ石沢支流の石滑沢小湿原はヨシ湿原といえます。ミズゴケによる泥炭の堆積が部分的にあるようですが、典型的なドーム状の高まりを持つ高層湿原はないと思います。それは降水量が多いことや、現在の湿原が最終過程に達するほど古くなく、湿原の成因が湖などの陸化型ではないことが原因でしょう。

8.3 湿原の成立時期

栗駒山の湿原については、宮城県が世界谷地湿原の学術調査を行い、その中でボーリングと花粉分析から成立年代を推定しています。この報告 (『世界谷地湿原学術調査報告書』昭和63年3月宮城県) によれば、泥炭層は世界谷地層と古世界谷地層にわかれます。世界谷地層は2メートル以内で現在の湿原に続いており、約 4,500年前から泥炭の堆積がはじまったようです。いくつかの湿原では有機質粘土層をはさんで古世界谷地層の泥炭の堆積があります。その成立時期は第二世界谷地の一部で約10,000年前、最も古いもので約16,600年前とされますが、規模は小さいようです。

日本では泥炭地の本格的な形成は13,000年~11,000年前の最終氷期晩氷期に始まると考えられています。最終氷期の極相期には植物生産量は少なかっただろうという理由からです。そして、12,000年前から日本列島は大陸性気候から海洋性気候に転換します。 8,000年前には対馬暖流が本格的に日本海に流入し、日本海側の豪雪期がはじまります。現在の泥炭地の大部分は 5,000年~ 6,000年前から各地で一斉に形成され始めたと考えられています。特に 2,500~ 3,000年前頃の寒冷期から形成作用は一段と促進されたようです。

栗駒山に点在する湿原もこれらの範囲から大きくはずれることはありません。古世界谷地層のような最終氷期中の湿原の形成があったとしても、その後の気候の激変によって一旦は消滅し、現在に続いている湿原化は 4,500年前以降に始まったのでしょう。

8.4 湿原の微地形

湿原の微地形では池塘が代表的です。栗駒山では、現在に続く湿原の成立時期が比較的新しいので、比較的初期の段階の池塘が見られます。池塘の成因にはいくつか考えられています、それぞれのきっかけに結びつく状態があって面白いです。

湛水シュレンケと池塘
湿原にはごく浅い水溜まりがあって、メモをとろうとすると池塘に含てもいいかどうか迷うことがあります。小仁郷沢ハート池湿原の南側や赤沢湿原の半月形の水溜まりがそうです。この成因は、融雪期で湿原の表面がビチャビチャしたときにできる水溜まりでしょう。そこでは植物の成育が遅れるため、周囲との高低差が次第に大きくなってゆきます。相対的な帯状の高まりがケルミで、凹部をシュレンケといいます。ある程度深くなって常に水が溜まっているものが湛水シュレンケです。池塘のような垂直で明瞭な輪郭はまだありません。

栗駒の湿原で見られる池塘の多くは、この湛水シュレンケがきっかけになっています。こういう池塘にはミツガシワやヌマハリイなどが生育しています。深さは膝上を越えるものは少なく、皿状の平坦な底を持つ。池塘が密集している隠れ龍泉ヶ原では20cm程の深さしかありません。底の泥をすくってみると、たしかに植物の繊維質が混じっています。栗駒山でこの種類の池塘で最も大きいと思われるものは、三途の川支流の硫黄ヶ原にあります。

指紋状パターン
小仁郷沢支流の瞳ヶ原や隠れ龍泉ヶ原、野鳥の森のだんだん谷地などは、他の池塘を持つ湿原に較べても非常に多 くの池塘があります。このような景観は、湿原がある程度の傾斜をもっているときにできるようです。特に瞳ヶ原では南西側の傾斜した部分に集中しています。帯の方向は等高線の方向に一致しています。尾瀬ヶ原にはもっと規模の大きなものがあって、空中写真でみると指紋状に見えることから指紋状パターン (ケルミ・シュレンケ複合体) と呼ばれています。

この成因は、融雪時に流された枯れ草などが帯状に堆積し、わずかな水溜まりが成長するものとされています。だんだん谷地は全体に南北に傾斜していますが、下部にゆくほど池塘がはっきりします。上部は数センチの窪みがあって、融雪期にはヌマガヤなどの芽吹きが遅れているのがわかります。

9. おわりに

木道のある湿原を歩いても「ああきれい」で終わりでしょうが、ヤブを漕いでたどり着いた湿原には神秘性を感じます。当然あるはずの森林やヤブが欠落した空間が現れるからでしょう。湿原の発達とそれを維持する微妙なバランスから、自然界のある種の生命を感じます。

ここでは栗駒の主な湿原と池沼をとりあげましたが、他の尾瀬や裏岩手、八甲田のような派手さはありません。そのかわり、自分が拒絶されているような冷たさもありません。湿原から見える山稜は穏やかで明るい緑に包まれています。背景にブナ主体の森を持つ湿原は栗駒以外であまり見た記憶がありません。

栗駒山の自然要素を独立したものとして一つを破壊すると、他の要素まで簡単に瓦解するという直観にも通じる…とういのは大げさでしょうか。自然保護の出発点はこのような認識なのだろうと思います。

(1994.1/24)

【参考資料】

(1) 辻井達一『湿原』中公新書839 中央公論社 昭和62年
(2) 阪口 豊『尾瀬ヶ原の自然史』中公新書928 中央公論社 1989年
(3) 阪口 豊『泥炭地の地学』 東京大学出版会 1974年
(4) 宮城豊彦『世界谷地湿原の地形及び地質』 (世界谷地湿原学術調査報告書 P1-19) 昭和60年
(5) 日本自然保護協会東北支部編『自然の栗駒-生物-』宮城県栗駒開発連絡協議会 昭和42年
(6) 西丸震哉『山だ原始人だ幽霊だ』 経済往来社 昭和52年
(7) 西丸震哉『山とお化けと自然界』中公文庫 ニ66 中央公論社 1990年
(8) 亀山 章『上高地の植物』 信濃毎日新聞社 昭和60年

『やまびと33号』に掲載したものをno+e用に編集


戻る

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?