西丸震哉の『ある空想山行』
西丸震哉氏の著作に『机上登山』(博品社 1998年)という本があります。机上登山という用語は前書きに西丸氏の造語と書かれています。私の記憶では西丸氏がこの言葉を使ったのは『イバルナ人間』(中公文庫M95-4)に収録されている「夢の山のぼり」(pp.188-203)だと思います。この本を読んだのはまだ仙台に戻る前で、標高の低い鬼首の北側の「ある空想山行」には到底興味がもてませんでした。その後、仙台の社会人山岳会に入ってから行ったよく通った皆瀬川流域がまさにこの山域でした。この文庫本を思い出すのずっと後のことです。そこには虎毛山や沼沢沼、春川の万滝など、実際に歩いたところが多く出てきます。
『机上登山』に収めている「虎毛山・沼沢沼-森の沼沢をたずねて-」では、1/25,000地形図や最近の情報を加えて再考しています。20編におよぶ考察は、すでに書かれたものの加筆もありますが、未だに若さを失っていないと思わせるものです。まえがきに「もし実施して、言われたとおりだった、とか、こんなにちがっていたとか、知らせてもらえればすごく嬉しい。ついでに出来のいい写真もつけてくれれば、なお喜ばしい」と書かれています。当時の山岳会の会報と写真でも送ってみようか、と思いつつ二十年以上が過ぎてしまいました。(※以下、区別が必要な場合は『机上登山』と付記し、ルートは赤線で書きます。)
1. ルートの概要
虎毛山(1432.7m)は旧道の赤倉橋から登山道があり、途中で高松岳からの登山道を分けて山頂に至ります。山頂から先の道はなく、全国的にはマイナーな山だと思います。しかし、東面にはダイレクトクロワールや春川本谷、日本百名谷にある万滝沢を擁するので東北の岳人には有名です。ちなみに山名は湿原を意味するアイヌ語が語源で、虎には直接関係はないようです。
虎毛山から沼沢沼まで皆瀬川流域の春川を歩きます。かつては森林軌道の痕跡などがありましたが、一般的な登山の対象ではありません。須金岳(1253m)は、すぐ近くの1241mピークを通る登山道があるので地元ではポビュラーな山です。沼沢沼は皆瀬川支流にある堰止湖で、近くに臼ヶ岳がありますが登山の対象ではありません。登山道が稀な広大な地域なので、西丸氏の興味を引いたのかもしれませんね。
2. 鬼首峠から虎毛山
西丸氏が「ある空想山行」で書いたときの1/50,000地形図には赤倉沢から登る登山道の記載がないので、旧道(仙秋サンライン)がある鬼首峠➊からのルートを引いています。その後の『机上登山』で修正がないのは➋の池を見たかったからなのでしょうか。➌~➏は仙北沢の源頭にあたりますが、日本登山体系1(白水社 1980年)にもこの沢の記録はありません。沢を詰めても登山道がないのが理由だと思います。ちなみに地形図で沢状になっていれば水線が描かれていなくとも水は流れていて、藪漕ぎは不要です。
虎毛山の西面では仙北沢と反対の赤倉沢を登ったことがあります。下部の滝が難しいのと、途中で登山道に抜けるところがポイントでした。この辺の読図を誤ると延々と藪漕ぎをするハメになります。
虎毛山の山頂一帯は草原になっていて、池塘のある湿原があります。晴れていれば遠く栗駒山よく見えます。避難小屋は1993年には新しくなっていました。比較的良く登られている 山なので、Google(ググる)と最新情報が得られるでしょう。
東北の脊梁山脈は偏西風の影響で西側の積雪が東側より少ないです。雪解けが速いので根曲り竹の生育が良いのか、経験的に藪漕ぎの難易度が上がります。感覚的に表現すると体ごとぶつかって行って押し戻される感じでしょうか。
そのため、登山道のない山域は積雪期に歩くのが一般的です。このルートは所属していた山岳会で虎毛山集中の正月合宿を行い、私たちのパーティは高松岳から虎毛山を越えて須金岳の先から鬼首に下っています。西丸氏にとっては無雪期に意味があったのでしょう。『机上登山』で修正したルートには➐から➑間は草原と予想していますが、『沢登りの本』(岩崎元郎, 白水社, 1983)の春川万滝沢の記録を見ると、上部は結構な藪漕ぎだったようです。
3. 虎毛山から沼沢沼
3.1 万滝を迂回して春川下降
虎毛山から須金岳の稜線にかけては万滝沢の上部、➒~➓と傾斜の緩いところをルートに選んでいます。その後、万滝を大きく迂回するように須金岳の稜線を辿り、万滝沢に戻ります。
虎毛山東面からは万滝沢と春川本谷(2回)の遡行、それにダイレクトクロワールから虎毛山に登ったことがあります。
登る順序は逆ですが、虎毛山の南面はかん灌木帯で見通しが効きます。春川と万滝沢の間にある尾根➒には草原や湿原が点在し、比較的歩きやすかったと記憶しています。偏西風の影響で大量に雪が残るせいでしょう。
万滝上部➒~➓は地形図のとおり穏やかです。万滝沢は沢登りをする人には有名な沢で、前衛滝を含めて万滝は凄みがあります。ただし、1996年宮城県北部地震の影響で大きく地形が変化したと言われています。
➓~⓫は特に困難な点はなく、須金岳の稜線も灌木帯ですが通過は容易です。私たちは万滝沢を稜線まで高巻きする逆コースを辿りました。
しばらく稜線を藪漕ぎすると登山道に出ます。須金岳周辺はかつて鉱山で栄えたと言われますし、沢で試掘の跡を見ることもあります。水沢森に通じる登山道も案外古くからあったのかもしれません。
ルートは1241mピーク手前⓬から春川⓭に下っています。ここは赤いゴルジュと呼ばれる場所の入り口です。1/25,000地形図で見るとわかるように、春川に降りるところが非常に急なスラブになっていて下降が難しいかもしれません。
⓭から下流の春川は嘘のように穏やかな流れです。滝記号のある三滝もゴルジュにはなっていないので通過は問題ありません。なお、1996年宮城県北部地震のときに三滝から少し下った右岸で大きな地滑りが発生し、堰止湖ができていました。もう土砂で埋まっていることでしょう。
3.2 須金岳経由で沼沢沼
『机上登山』では春川の下降を止めて須金岳から県境尾根にルートを変えています。ここも積雪期のルートで、無雪期に歩いたという話は聞いたことがありません。私は正月合宿で須金岳から栗駒山を歩いています。
尾根の南側に雪庇がよく発達していて、北側は樹林帯になっています。途中、沼沢沼が比較的近く見えましたが、無雪期だったら藪でわからないでしょう。
4. 沼沢沼から花山峠
春川を⓯まで下ったあと、八百切山の鞍部⓰を越えて沼沢沼に降りています。皆瀬川まで下って河原沼の沢から登った方が効率的なのですが、ここも不思議なところです。地図に記載はありませんが、当時は植林事業のための森林軌道が皆瀬川沿いに通っていて、春川にも伸びていました。地形図の登山道はその跡です。なお、沼沢沼はこの八百切山の地滑りで沢を堰き止めて出来たと考えられます。
さて、私たちは1989年11月初旬に通いなれた皆瀬川沿いの森林軌道跡の道から沼沢沼に行きました。このときの記録は深野さんが山岳会の会報『やまびと29号』(1989.12月)に詳しく書いています。沢の名前やブーメラン山などはそのときに勝手に命名しました。
河原沼は常時水がある訳ではなく、晩秋の時期には干からびていました。周囲は下草の生えていない疎林になっています。
沼沢沼は伐採が入っていてご覧のとおり周囲は禿山になっていました。少し沼の臭いがするので、東側の沢沿いにツエルトを張って焚火を楽しみました。まあ『机上登山』の修正通りの静かな夜を過ごした訳です。
翌日は臼ヶ岳から入る沢を登って山頂を往復しました。帰路に河原沼の上部を観察すると、案の定、水神を祭りたくなるような伏流水の出口がありました。
なお、⓲の湿原はR398から簡単に行けて、さすがに標高が低すぎて湿地という感じでした。写真はあまりきれいに撮れなかったので掲載しません。
5. あとがき
初めて読んだ西丸震哉氏の本は『山歩き山暮し』(中央公論社 1974)で、その後たくさん読んだ中でもこの本が一番好きです。この頃の山の本というとアルピニズム指向が強かったのですが、水平指向の山に興味がわきました。これは入会した山の会が沢登りと山スキーを主体にしていた影響もあります。地形図に水線を書き入れて沢登りや山スキーの山行計画をたてますが、栗駒の湿原探しや尾瀬の北方稜線をいれたり、西丸氏の著作にも影響を受けた気がします。
このno+eは、西丸震哉氏の『机上登山』に虎毛山の皆瀬川流域の仮想ルートがあることを良いことに、自分の思い出(i.e.,悪いことは忘れて…)を重ねて書いてしまいました。個々の記録は当時所属していた山岳会の会報に書いたのですが、さすがに30年以上も経つと本当に自分で登ったのか怪しくなってきました。
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