BaseBallBear『天使だったじゃないか』
2024年2月28日にミニアルバム『天使だったじゃないか』がリリースされた。ミニアルバムという形態のリリースとしては2013年の『The Cut』以来、11年振り。
ジャケットのデザインは小出(以下敬称略)が言及した歌人の伊藤紺の歌集のデザインと同じ脇田あすかが手掛けている。一見、灰色の単色のようでよく見ると色々な色が織り交ざっている、見ごたえのあるジャケットになっている。
本作の公式の紹介文は以下の通り。
そして、小出と音楽ライターの南波一海がホストを手掛けるPodcast「こんプロラジオ」内で、本作のインタビュー的対談が行われている。
本noteでは上記の本人が語っているのを「答え」にしないように、雑感を述べていきたい。
楽曲雑感
1.ランドリー
ランドリーと言う曲の冒頭から、「シロクマ」を出すのは上手いイメージの並列だと唸らされた。
当然、野生のシロクマは白一色ではない。他の生き物を食べたり、地面の色であったり、排泄物が付いたりすることで「まっ白とはいえない」状態になる。洗濯と言う行為も、見た目は白くとも洗剤の残りかすなどが残っている場合がある(「こぼした思い」という言い回しは密やかにランドリーと結びつく)。
まさしく私たちの積み重ねてきた生活もその通り「まっ白とは言えない/遠い」ものだと言えよう。ここでの語り手は「なじんできた 味が出た」と自ら言えずとも周囲から言われうる年齢の人物であり、筆者である自分も30代前半であるため、深く刺さるものがある。
ひたむきに毎日を送る人々の姿を描写した曲としてスピッツの「シロクマ」と言う曲がある。
「ランドリー」に描写される人物も過酷な毎日に心身ともに削られている人物であり、響き合うものがあるように感じた。特に以下のフレーズには頷きを禁じ得なかった。
また、この曲の中では現状に対する実感のみならず、自身が通り過ぎて行った季節への回顧の眼差しがあり、それがサビとして、そしてアルバムのタイトルとして機能している。
こういったフレーズを見かけると、ついつい「SCHOOL GIRL FANTASY」や「Transfer Girl」といった過去曲を持ち出してしまいそうになるが、その後にそれぞれ以下のビターな現状を表す言葉が並ぶ。
「天使だったじゃないか」とは、受け手が如何様にも解釈可能な強いフレーズである。個人的には①「天使であったはずなのに、今となってはそうでないことを受け入れざるを得ない日々を送っている」と言う解釈をしているが、それだとあまりに救いがない。②「天使だったことは間違いなく、ほとんど現状を受け入れてはいるが、一筋の可能性はある」という解釈も可能なのではなかろうか。
基本歪んだギターストロークが印象に残るミドルチューンであるが、サビは関根のコーラスも乗り、タンバリン?の音も加えられ開けた印象を持たせる。①のような陰鬱でふさぎ込んだ印象とは対照的な音である。もちろんそれもMr.Children「Over」に代表されるような、暗い歌詞に明るい音を当てはめた異質さを狙うものかもしれないが。
Podcastでも述べている部分であるが、Aメロに当たる部分がラストサビ的な役割を果たしているのは、面白い曲構造になっている印象を持った。
2._FREE_
ギターのフィードバックノイズから、元気のいいバンドサウンドになだれ込む一曲。こういう重くない歪みの効いたギターの後ろでアコギのストロークが鳴ってる楽曲、The Cure「Friday I'm in love」とかRIDE『Nowhere』収録曲くらいしか浮かばなくて、、。
この曲の詞では、特に批評について語っているのではないか。
Aメロの出だしの歌詞や、Bメロに当たる部分がそれを想起させる。
1番にあたるパートは作成者側の意識としてみる方が妥当性が高いか。歌詞づくりなどで「空欄のままの細部」に「神」を宿らそうとする行為は表現者における意識だろう。
それによって作り上げられた「ひみつ」を聞いてよ、見てよ、と呼び掛けているように読める。
ここだけを読むと、「創造物はその「答え」が制作者によって密かに忍ばせてあり、それを解き明かすことが肝要である」とでもいうような作家主義的な態度に見える。
しかし「透明な糸(おそらく意図とのダブルミーニング)」は当てられた光により無限にきらめくのだ。受け手の意識によって、あらゆる創作物は多様な意味・価値を持ち得るのである。さながらロラン・バルトの提唱するところの「作者の死」か。「無関係な連なり 束ねて運命としたり」と間テクスト性についても、言及しているのがニクいぜ。
すると、「神」という存在が最初と二回目とで印象が変わるのが分かる。一度目は創作において細部に宿るwonderのようなものを指しているが、二度目は作品を批評したり考察したものを提示したものへ送られる言葉としての「神」となっているのだ。
これは皮肉と言うべきか、かなりスパイスの効いた用法の転じ方と言える。先述のPodcastでの発言だけで「分かった」と言ってる人へジャブを撃つような言葉なのである。
すると、サビの言葉は誰かの言葉でその作品を「分かった」気になっている人へ向けた言葉になっていると考えられる。あくまでその人の読み方は、その人次第であり、人の読み方になぞらえる必要はないのだ。
そして、その誰かの言葉は「無料じゃない」のである。その言葉が出てくるまでの積み重ねにはいくらかかってることか…。そして、誰かに自分の心を言語化してもらった気になってしまうのは、非常にもったいないことなのである。
とカギカッコが付されているのは、自分で自分に言い聞かせている心内語である。カギカッコがヘタに周りの言葉に襲われないようにするための防御壁にも見えなくはない。
3.Thousand Chords Wonders
軽く検索するにThe Advertsというバンドに「One Chord Wonders」というパンクの曲があるらしい。ベボベにパンクの印象は薄いが、小出は近年ラジオでポストパンク史を研究していたか。
この曲と次の曲はABの2つのパートで構成されており、非常にシンプルであるが、ギターの歪みと音量を調節することでBメロの印象をより強化し、聴きごたえを増している。
歌詞の主たる舞台は「ブレザー」という言葉などから学生時の風景である。内実はどうあれ、人前の舞台に立つものに対して「退屈なステージ」や「ああ、こうはなりたくないな」とつぶやくのは、AでもなくCでもない、その間でモヤモヤしてるB組の生徒の皆さんでしょ、間違いなく。
そして、そんなこと言ってる自分も嫌いなんだよな。それは以下の流れに集約されている。
二転三転する意識の反転のさせ方、とんでもなく鮮やか。
そして「甘く痛む 心の奥底」をこの後文字で描写するのではなく、ギターソロで表現するのも素晴らしい。ギターソロの後に来るBメロの後半の歌詞が以下のようになっているのが、その理由ではないか。
一回目のBメロでは「アイミスユー」を単なる言葉としてみなしていた。だから「アイミスユーだけじゃ歌えない」という言葉が出てきていたのだ。しかし、二回目のBメロでは「アイミスユー」は相手への想いを表すものとなっている。つまり言葉にならない、甘い痛みを生じさせる想いなのだ。
「アイミスユー」という言葉に血の滲むような思いを傾けている曲をアルバムの冒頭に持ってきたのが、2023年のMr.Childrenであった。
4.Late show
「レイトショー」といえばThe Mirraz「レイトショーデートしよう」が思い出されるが、ミイラズがレイトショーデートの最中を描いているのに対し、この曲ではレイトショーを「ひとり」で観に行った現在の自分による「ふたり」で観に行った日々の回想が中心となる。
曲調としてはグッとこれまでよりテンポも落として、センチメンタルなメロディーを採用しており、エレキギターの中でアコギのストロークが印象的に聞こえるサウンドメイクは「夜空1/2」をわずかに想起させる。
前の曲と同様ABのパートによる構成で、Aメロがいわゆるサビのメロディーになるかと思われるが、何といってもBメロの歌詞に唸らされた。
まず一回目は以下の通り。
このパートは「横顔 あなたのバースデイ 祝いすぎて泣けちゃった」で意味を切ることも可能だが、「屋上ごと いまはもう知らない店に」まで含むことも可能である。このように意味の切れ目が曖昧なことは、Aメロの「戻りたい日があるよ」の「よ」とBメロの頭の「横顔」の「よ」が分けられず、まとめて歌唱されている所にも表現されている。
ここで綴られているのは「歌詞」であり、歌唱上の工夫によって言葉と言葉が意味の上でも、音の連なりとしても溶け合うのである。
次のBメロの歌詞も同じ工夫が凝らされている。
こちらも「向こうの角 曲がれば いつでも何か起きそうだった」で切っても、「いつでも何か起きそうだった この街も」と繋げても意味が通り、意味や情景に広がりがもたらされている。
このように角を曲がった先の未来に光を見出したのが小沢健二「さよならなんて云えないよ」であった。本人の気の持ちようだけでなく、環境の変化によっても明るい予感はついえてしまうものだ。
5.夕日、刺さる部屋
上記noteに詳述したので割愛。
6.Power (Pop) of Love
曲名はヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの超有名曲「Power of Love」からか。ベボベリスナーがどうしても「(WHAT IS THE)LOVE & POP?」を思い出すのは理解できる。昨年にかけてこの曲と同じく1985年に大ヒットしたa-ha「Take on me」は様々な人がリズムパターンを引用してたけど、曲名だけでも言及してるのは全然見ない。いやいや、早すぎるぞ小出。
イントロがギターのジャカジャーン二発なのは、これまでの捻くれ具合を知ってるリスナーからすると笑っちゃうくらいのシンプルさ。でもそれくらいの方が爽快でイイ。全体の雑感でも述べるが、原点以前回帰みたいな音像(つまりそれがパワーポップなのだろう)で構成されているので、シンプルなイントロがよく映えている。テンポ感も含めTHE YELLOW MONKEYの「LOVE LOVE SHOW」や「パール」が頭に浮かんだ。
Aメロの終わりが二つとも「はなしたくねえ」であり、「君」への溢れんばかりの想いをまとめたのがこのパートだろうと聞き手は受け取るのだが、映像的であったり、時代をキャプチャする姿勢だったりと、細かなトライが刻まれているのもこのパートだ。
一つ目のAメロでは「ウィンドウに顔近づけた ふたりの君が」というフレーズが出てくる。これはウィンドウに「君」の顔が反射し、実像と虚像が近づくさまを捉えたものである。また、この「ふたりの君」を拡大解釈すると、目の前の「知っている君」と「まだ知らなかった君(古美術に興味を持っている様子の)」の二人と読み取ることも可能である。
続いて二つ目のAメロでは「1.0倍速で読み終えた ハン・ガンの『菜食主義者』の感想 消費せず 押しつけもせず ふたりのあいだ」とある。この2024年に発表する作品に、「1.0倍速」「消費せず」という言葉が並んでいたら、絶対に「ファスト映画」などのコンテンツの消費の実態を頭に思い浮かべることだろう。この時代だからこそ綴ることのできるリリックだと言える。
サビに当たるパートのオチで大切にしたかったり、心でぎゅっと育てたいのは「君が愛おしいってこと」である。もし従来的な「まっすぐなラブソング」であれば「それでも大切にしたい 愛しい君のこと」みたいな歌詞になるだろうが、この書き方を採用しているということはこの曲は「『君が愛おしい』と思う心の動きを表した曲」と考えることができる。
こんプロの貯本の回でアセクシャルに関する書籍に触れていて、そこへの意識が組み込まれたものだろうが、書き手である小出は当事者としてどの目線で「君が愛おしい」ということに向き合うのかという決意表明にも見える歌詞だと感じた。
それまでもそうではあったが、『C3』期の歌詞からかなり意識的にラブソングの書き方を男女関係に絞ったものではなく、人と人とのつながりの間に生まれる機微をとらえた普遍性の高いものに昇華させている。
それにしても「物語に浮かれそうになる自分を疑ってかかる」「美しいな 抱きしめたいな って衝動 検証すべく持ち帰った」という態度、無茶苦茶信頼置けるぜ。冷静なメタ視点。
また、この曲のテンポ感は「SUNSET KI-RE-I」を彷彿とさせるし、「花筏(はないかだ)」という「Darling」の「潦(にわたずみ)」ばりの難読漢字が出てくるし、キワメツケには「夏い」が降臨するしで、ベボベを線で追っているリスナー歓喜な表現も散りばめられている印象であった。もちろん出だしの「PPOL!!」も終わりの「間違えちゃった笑」もそれに類するものである。
全体雑感
〇過去と現在の往還
1・3・4・5曲目に顕著であるが、現在地点から「かつて、あった」ものへ眼差しを向ける様が強く表れた内容に感じた。2曲目の「_FREE_」、6曲目の「Power (Pop) of Love」についてもTwitterやポンペイという「かつて、あった」ものへの思いがしたためられている。
今回の作品が歪んだギターの音の壁を主体としたギターポップという、ベボベがインディーズファーストアルバム以前の音楽性を志向していることが、こういった歌詞の内容にもつながっていることだろう。
リスナーにとっても、こういった音像はトレンドとしても懐かしみ(それはリバイバル的に新しさを内包するものだが)があるものだろうし、決してクリアとは言えない「かつて、あった」日々を彩る音として歪んだ音が採用されるとさらにその風景が強調される作用がある。
一方でこの音像は2024年現在「皆がやっていないこと」であり、その意味での新しさがある(昨年のくるりのリリース曲がキッカケになっていると考えると、全く誰も手を付けていないわけではないが)。
そして、歌詞についても懐古にとどまらず、そこからジェントリフィケーションや世界の抗争・戦争といった現代の問題に矢印が向かっていく飛距離の大きさのあるものとなっている。
その意味ではアルバム『光源』で用いていた時間の表象としての「光」が散見されることは、その意図であったのかもしれない。
〇歌詞の上でのゆるやかな繋がり
先述した全体のモチーフのみならず、本作収録の楽曲は歌詞の上でもゆるやかな繋がりをもっている。
例えば「ランドリー」の以下のフレーズは次の「_FREE_」の「無料」と批評にまつわる言葉としてつながる。
また、「Thousand Chords Wonder」という明確な「あの頃」の情景をまとめた曲の次に、「Late show」を並べて「あの頃」を振り返る人物を重ね、「夕日、刺さる部屋」という時間が遡る(夜から夕方へ)曲順にすることで、全体のテーマの一つであろう、これまでを振り返る視座を曲の繋ぎによって嗅ぎ取ることができる。
「Power (Pop) of Love」は一つハミ出たような印象を持たせるが、「心でぎゅっと育てたい 君が愛しいってこと」という部分は、大事なことは君の心の中で君しか創造できないというメッセージ性が「_FREE_」と通ずる。
以上のように、今作はミニアルバムとして近い音像の楽曲をまとめ、さらには言葉によっても結びつきがある作品と見ることが可能である。
〇個人的な今後の希望
個人的には、ここ最近リリースされた「悪い夏」や「Endless Etude」といったポストパンク的な、トリッキーとも言われかねない楽曲に打たれていたので、製作していたが自分たちに似合わず、さらにART-SCHOOLじゃん!となっていたとしても一まとまりの作品としてリリースして欲しかった。
ギターポップ的な音を周りがやっていないといっても、くるりは先んじて昨年行ったし、アジカンもザ・パワーポップな「サーフ・ブンガク・カマクラ」の完全版をリリースした所なので、誰もがしなかった所という印象は薄かった。
どちらかと言うと、自らのヒストリーの中での未開拓地(それは実は手をつけていた知られざる歴史があるのだが)を提示したものとして受け止められた。
数年後を見越して石を投げるタイプの活動を行うため、現在の印象と数年後の印象とでは大きく変わってるかもしれないが、ポストパンク的なアプローチを大きく期待していた分、その違いに少し戸惑った。
しかし、「SEVENTEEN」や「チェンジアップ」のような『夕方ジェネレーション』以前の楽曲、小出がラジオで紹介してた楽曲を聴いて馴染みつつあるこの頃である。
ルーパーを用いて作った楽曲もあると聞くし、チャップマンスティックが用いられた楽曲は今のところ新曲として「EIGHT BEAT詩」しかないので、その方向のアプローチの楽曲を楽しみに待ちたい。
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