一粒の奇跡 #ショートショート
「じゃあパパ。おやすみなさーい」
スーパーボールのように弾みながらドアの向こう側に消えていく三つの影。急に訪れた静寂。
やっと一日が終わった。寝れる。
桔平は糸が切れたマリオネットのように椅子に崩れ落ちると、そのままゆっくり目を閉じた。
澱んだ空気の中で、唇を噛み締めたまま俯く部下の姿。飛び散る書類。
会社に不満があるわけではない。
むしろ、恵まれている方だと思う。
なのになぜか、仕事の事を思うと鉛のように身体が重くなる。
桔平は薄目を開けて天井の灯りを見た。
夢なのか。
全部夢なのか。
俺は、ずっと夢を見ているのか。
「そんなところで寝たら風邪ひいちゃうわよ」
声のタイミングで桔平の首がガクッと横に傾いた。その微かな振動で『今、目が覚めた』というフリをする。
目の前のテーブルには、カットされたゆで卵が並んでいた。
「なに?これ」
いつもならマヨネーズが添えてあるはずのそれには、黒い丸いものがちょこんと品良く乗っている。横には同じものが何粒か飾りのように添えてあった。
「たまには違う味もいいでしょ。騙されたと思って食べてみて」
妻の香澄が洗い物をしながら、首だけ傾けて振り返る。
桔平は、半熟の黄味が崩れないようにそっと箸で摘むと、まず鼻を近付けた。
「なるほど、胡椒か」
香澄が『正解!』と言うようにフライパンを桔平に向ける。
「といっても、ただの胡椒じゃないのよ。『粒生こしょう』って言うの。生のまま塩漬けしたものだから、そのまま食べれるのよ」
ふーん。と軽く頷きながら、桔平はそのままポイとゆで卵を口に放り込んだ。
次の瞬間。
桔平は片方の頬を膨らめたまま、目を丸くして頭を上げた。そして、皿に置いてあった黒い粒を箸で摘んで繁々と見つめ。
そして今度はその粒だけをゆっくりと口の中に運んだ。
プチッと実が弾ける食感の後に、ジワジワと押し寄せてくる辛味。
その深い辛味が胸まで届いた時。
桔平は「夢から覚めた」
「前から言おうと思っていたんだけど、私、もっと働けるわよ。働くの好きだし」
だから、大丈夫よ。
という、香澄の声がはっきり聞こえた。
「一緒に食べよう」
桔平は涙を拭いながら、向かいに座った香澄にそっとお皿を滑らせた。
✳︎✳︎✳︎ end ✳︎✳︎✳︎
2022年2月15日(火)〜2月18日(金)
東京ビックサイトにて開催されたHCJ2022に行ってきました。
その中で出会った
HITOSAJIYAさんの粒生こしょう(Amazonリンク)
今回は、その時閃いたショートショートをアップいたしました。
HITOSAJIYA - スプーン一杯の専門店毎日の食卓を一転させる、選りすぐりの調味料やスパイスを扱う「HITOSAJIYA」の公式サイト
「スプーンひとさじ」で食卓が変わる。
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