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聖エリーザベト

Elisabeth

王女から赤貧の在俗修道女に

英国女王エリザベス二世、銀幕のスター、エリザベス・テーラーがあまりにも有名で偉大なためか、欧米の一般の女子名にエリーザベトは意外にも少ない。
マールブルク(またはハンガリー、またはチューリンゲン)の聖エリーザベト(エリザベト、エルジェーベト Erzsébet)は、13世紀初頭のハンガリー王、アンドラーシュ二世の王女として生まれた。
4歳の時にドイツ東部の地方貴族、チューリンゲン方伯と婚約し、同時にドイツの礼儀作法、仕来りを学ぶために、チューリンゲン地方ヴァルトブルク城に連れて行かれ、育てられた。
14歳で結婚し、3人の子の母となり、幸せな結婚生活を送っていたが、20歳で夫を亡くし、その後信仰に生き、慈善活動に身を捧げ、24歳で亡くなった。
短いながらも波乱万丈の人生を送った女性だった。

エリーザベトの祭壇画(1511年 ヨハン・フォン・デア・ライテン作)

エリーザベトは夫が亡くなる前から貧しい人たちにパンを与え、飢饉の時には宮廷が保管していた穀物などを領民に分け与え、病人の介護もした。
ハンセン氏病の患者を自分のベットに寝かせ、夫が咎めたところ病人はイエスの姿に変わっていたという奇跡譚も残っている。

アルテ・ピナコテーク所蔵 1519年 ホルバイン作

夫は十字軍に参加し、聖地に向かう途上、イタリアで病没した。
3人の子どもたちを婚家に預け、俗世を棄てて修道会に入会した。
貧しい人を救済し、貧者たちに食べ物、衣服を与えていた。

聖エリーザベト教会のステンド・グラス

夫の死後、厳格な宗教の師でもあるコンラッドがいるマールブルクに移り、婚家に持参した金品を全額寄付し、施療院を築き、老人、病人の介護に身を捧げた。

聖フランチェスコ大聖堂聖マルティヌス礼拝堂
(イタリア・アッシジ 14世紀 シモーネ・マルティーヌ作)

夫の死後、フランチェスコ会の第三会に入会し、在俗の修道女となった。
アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の下の階の聖マルティヌス礼拝堂に、聖クララと並んで聖エリーザベトの肖像が描かれている。

聖エリーザベト教会

マールブルク聖エリーザベトの墓廟の上に、聖女の帰天4年後(1235年)から教会堂の建設が始まり、1285年に完成。この地には本来聖エリーザベトが寄贈した施療院の礼拝堂があった。
教会建立以降、中部ドイツの重要な巡礼地となっていた。
宗教改革の時代、16世紀半ばからプロテスタントの教会として利用されている。

教会入口門上のタンパン

聖エリーザベトは、ヴァルトブルクの宮廷にいたころから、貧しい人たちに施しを与えていた。
ある時、パンを城から持ち出したのを夫に見つかり、夫に咎められた際に、パンが薔薇に変わっていたという言い伝えがある。
そのために薔薇は、聖女のアトリビュート(属性、象徴する物)となり、入口門の上部タンパンには無数の薔薇が彫られている。

聖エリーザベトの墓廟

聖エリーザベト教会内に墓廟があるが聖遺物は置かれていない。
宗教改革時に教会は強奪され、一時期聖遺物の所在も不明であった。
現在はウィーンの聖エリーザベト病院の礼拝堂に顕示されている。
聖エリーザベトが帰天したころ、聖人崇敬が最も熱を帯びていた時代であった。
聖女の帰天(11月17日)後、2日間遺体が公開され、熱狂した弔問客たちは、聖女の遺体の一部を毟り剥ぎ取り、ヴェールなども窃取したという。

ドイツの中央部に位置するマールブルクは、カトリックプロテスタントが相半ばする地方だ。
聖女の記念日のミサも双方で行われる。
埋葬日である聖女の記念日(11月19日)には、18時からカトリックの聖ペテロと聖パウロ教会で記念日の晩の祈りがあり、その後、同教会から現在プロテスタントの教会となっている聖エリーザベト教会までキャンドル行進がある。

約1キロメートルほど離れたカトリック教会から半時間の蝋燭行進の後、聖エリーザベト教会ではプロテスタントの信者たちが迎え、プロテスタントの女性牧師の司式で合同の祈りがあった。
その後、大学のキリスト教研究会の生徒たちが聖女賛美の詩を読み、自作の讃美歌を合唱し、新旧教徒の友好的な新しいスタイルの記念日の祝い方だった。


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