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石打ちの刑で処された最初の殉教者

初代教会で使徒たちによって選ばれた七人の助祭の一人、ステファノは弁舌が巧みで、多くの若者やユダヤ教の聖職たちまでもキリスト教に改宗させた。ユダヤ教徒から反感をかい、石打ちの刑に処せられてキリスト教最初の殉教者となった。処刑に立ち会った人々の中の一人がサウル、後の聖パウロであった。聖ステファノの記念日(12月26日)にウィーンの聖ステファン大聖堂で特別ミサが行われる。

シュテフィの愛称で親しまれているウィーンの聖シュテファン大聖堂

ウィーンの旧市街を昔は城壁が取り囲みウィーンは城郭都市であった。約150年ほど前城壁を取り除き、現在は城壁の跡地を市電が走っている。旧市街の中心に聖シュテファン大聖堂が聳え立っている。モザイク風の屋根瓦が美しい聖シュテファン大聖堂はウィーンのシンボルだ。
1156年、オーストリア公国Herzgtum Österreichが設立しウィーンが首都となり、以来ヨーロッパ北東部の重要な都市となる。その約20年ほど前、オーストリアの辺境伯とドイツのパッサウPassauの大司教が協定を結んだことから聖シュテファン大聖堂の歴史は始まった。

豪華な聖シュテファヌスの聖遺物容器。ウィーン王宮宝物館所蔵

聖シュテファヌス大聖堂が立つ場所には本来ザルツブルグの聖ルプレヒトに献堂した教会があった。ここに改めてパッサウの守護聖人聖シュテファヌスに献堂した教会を建てたことから聖シュテファン教会と呼ぶようになった。昔は、教会を献堂する際に聖人の聖遺物を教会の祭壇の下に埋葬したために、聖ステファヌスの聖遺物をパッサウからウィーンに移葬した。当時、聖遺物は黄金に勝るとも劣らぬ価値があり、顕示する容器を見ると如何に重要かつ珍重されていたか?が理解できる。

祭壇横にはクリスマスの星(ポインセチア)に飾られたクリスマスのクリッペが
司教団と共にウィーンの約100名の助祭も入堂。赤いストラは殉教を意味する
聖シュテファヌスの聖遺物を持って入堂する助祭
聖シュテファヌスの聖遺物
聖シュテファヌスの特別ミサには後陣に約100人の助祭が並び立ち荘厳
記念日の特別ミサ、中央身廊には信者のみ参列可能
大聖堂付オーケストラと合唱団

特別ミサは音楽の都ウィーンらしく、大聖堂のオーケストラと合唱団による教会音楽が演奏された。大聖堂の合唱団、音楽隊の歴史は古く、資料に現れる最初の音楽付きミサは14世紀半ば。大聖堂の少年合唱隊にはハイドンもメンバーになっていた。モーツアルト、シューベルトも大聖堂の聖歌隊を指導。モーツアルトは大聖堂の作曲家という役職もになっていた。モーツアルトは、この大聖堂で結婚式を挙げ、葬式も行われた。

聖人録
聖ステファヌス

  ステファノは、イエスの生誕と同じころエルサレムのユダヤ人家庭に生まれた。初代教会において使徒たちによって選ばれた七人の助祭の一人。ステファノは弁舌が巧みで、多くの若者やユダヤ教の聖職たちまでもキリスト教に改宗させた。救い主キリストを十字架にかけた人々の過ちを堂々と説いたためにユダヤ教徒から反感をかい、石打ちの刑に処せられてキリスト教最初の殉教者となった。その刑に賛同し、立ち会った人々の中の一人がサウル、後の聖パウロであった。
 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで眠りについた(使徒言行録7・59 〜 60参照)という。遺体は、ユダヤの法律家ガマリエルによってエルサレムの郊外に葬られた。
 紀元後415年、ステファノの聖遺物は発掘され、聖ロレンツォ
も助祭で殉教していたことからローマの城壁外の聖ロレンツォ大
聖堂に葬られた。発掘された8月3日も記念日となっている。
助祭、石工、建築労働者、頭痛の守護聖人。
ステファノは冠を意味するギリシア語シュファノスからきている。ドイツ語シュテファヌス、フランス語エティエンヌ、スペイン語エステバン。フランスで人気の聖人で、フランスにサンティエンヌ(聖ステファヌス)という都市もある。




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