
洗礼の日に視力を恢復した目の守護聖人
ドイツと国境を接するフランス北東部はアルザス地方と呼ばれる。西側をヴォージュ山地、東側をライン河に仕切られた東西約50キロメートル、南北約200キロメートルの細長いアルザス地方の中心に「モン・サン・オディール修道院(Couvent du Mont-Sainte-Odile)」がある。680年に聖オディールによって基礎が築かれた修道院で、修道院付属教会で聖オディールの記念日(12月14日)に特別ミサがある。

フランス北東部のアルザス地方の主都ストラスブールから南西に約20キロメートルほど行くと、山麓の古都オベルネ(Obernai)がある。ここから丘陵が始まり、ヴォージュ山地の坂道を上っていくと標高約700メートルの断崖の上にモン・サン・オディール修道院があった。ここには7世紀頃には要塞ホーエンブール(Hohenbourg)があり、地方の統治者の娘だった聖オディールが譲り受け、城塞の地に修道院を築いたことから「ホーエンブール修道院」とも呼ばれる。


聖オディールの記念日(12月14日)に修道院付属教会で特別ミサが行われた。モン・サント・オディール修道院は、フランス北東部の北緯48度、北海道の最北端よりさらに北に位置し、標高763メートルの地にある。12月に入ると、凍《しば》れる日々が続くが、記念日の特別ミサには山麓のオベルネ(Obernai)村からも多くの信者が参列した。








12世紀半ば、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ・バルバロッサは父が破壊したホーヘンブール修道院を、自分の身内のレーゲンスブルグのアウグスティノ会修道院長レリンデに再建を委ねた。現在、修道院の庭園内にある涙の礼拝堂、天使の礼拝堂は、レリンデ修道院長の時代に築かれた。


修道院の敷地には数々の礼拝堂、修道院と共に宿泊施設もある。一般観光客も受け入れてくれる。清潔で安価、さらに天気の良い日には修道院の庭園のテラスからのアルザス地方のパノラマが美しい。

私は、12月中旬のアルザス地方の山岳地帯は早朝道路も凍ると聞いていたので記念日の特別ミサの前夜から修道院付属のホテルに宿泊した。朝、ホテルから修道院付属教会に行く途中も身を切るような激寒さで震えてしまった。冬にモン・サン・オディール修道院を訪問するならば修道院のホテルに泊まることをお勧めします。

ホテルをチェック・アウトした後には山の中腹にあるという神秘の泉を訪れた。冬なので訪問者も少なく静謐が保たれていた。泉の石の碑板には「聖オディ―ルがこの岩を叩くと霊水が湧き出た。巡礼者は神秘の泉で足を止め貴方の魂を照らす神に祈りを」と。山の上の修道院と共に、神秘の泉も巡礼地として人気がある。


聖人録
聖オディール Sainte Odile

聖オディールは、660年頃フランス北東部のアルザス地方の古都オベルネでエティション=アダルリック公爵の娘として生まれた。もともと世継ぎを望んでいた公爵は、生まれた子が女子で盲目だったために、その子を殺害するよう命じた。しかしながら娘の殺害を察した母親は娘を乳母に預けオディールを夫から遠ざけた。オディールはオベルネから南へ約100KM離れたボーヌ・レ・ダムの修道院に預けられ育てられた。

15歳の頃、アイルランドからアルザス地方に宣教に来ていたエアハルト司教 évêque Erhard d'Ardaghは、ボームに居る目の見えない少女を救え、という神の声を聴いた。修道院に行き少女を洗礼し、聖油を目に塗ったところ少女は視力を取り戻した。その時、少女は司教から神の光という意味で「オディール(ラテン語オティリア)」の名前を授かった。(ゲルマン語ではオドは繁栄、資産などを意味する)

視力が戻った妹オディールを兄のユーゴ―伯爵は城に戻そうと試みる。すると逆に父のエティション公爵は激怒しユーゴ―を杖で叩き殺した。公爵は後に後悔の念に駆られ、オディールを受け入れ、城にオディールを迎え入れた。公爵はオディールを結婚させようとしたがオディールは結婚を拒みライン河を渡り山の中に逃げ込んだ。
オディールが祈りを捧げている時に公爵の追手が近づいたところ、岩が割け、オディールは岩穴に逃げ込んだ。それを聞いた公爵は神の啓示と考え、オディールを城塞に迎え、後に城塞を与えた。
オディールは城塞を敬虔な貴族の娘や寡婦たちの女子修道院にした。貧しい人や病人の世話にも生涯を捧げた。ホーエンブールの修道院は山の上にあるために、病人や婦人が来訪すのに難儀であったために後に山の麓にも新しい女子修道院を築いた。聖オディールの死後、この中心地は巡礼地となった。
聖オディールは、盲目、視力が弱い人、アルザス地方の守護聖人。
目の守護聖人であることから、フランスの聖ルチアとも呼ばれる。