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大西洋の小島で発見された聖母子像

大西洋の北東部、アフリカ大陸から約100㌖ほどの洋上にカナリア諸島Islas Canariasがある。七つの島からなる諸島のテネフェリフェ島Tenerifeの町カンデラリアCandelariaで「主の奉献」の日(2月2日)にカンデラリアの聖母子の祝祭事が催される。スペイン語でカンデラCandelaとは蝋燭を意味し、世の光を齎した主の到来は聖燭祭とも呼ばれた時代もあった。

右手に幼子、左手に燭台の杖も持ったカンデラリアの聖母マリア

カナリア諸島の中で最も大きな島テネリフェTenerifeの海岸線の洞窟で14世紀末に先住民のグアンチェ族の二人の少年が、右手に幼子を左手に緑の蝋燭(カンデラCandela)を持った褐色の肌の女性像を発見した。一人の少年が像に石を投げようとしたが手が麻痺し、もう一人はナイフで像を刻もうとしたら自分を刺してしまった。スペインがカナリア諸島を占領した後に信仰の篤いスペイン王フィリッペ2世がこの像を聖燭(カンデラリア)の聖母子と命名した。以来、町もカンデラリアと呼ばれるようになった。
カンデラリアの聖母マリアは褐色の聖母であることから「ラ・モレニータ」"La Morenita"(小さな黒い聖母)という愛称で親しまれている。

先住民グアンチェ族の像とカンデラリアの海岸線

カナリア諸島は新大陸発見時代に、新大陸に向かう多くの探検隊、大洋を渡る船舶の補給基地となった。新大陸を発見したコロンブスもスペインのコンキスタドール、コルテスもカナリア諸島で最後の補給をして新大陸に向けて出航した。多くのスペイン船が、カナリア諸島を経由したことからカンデラリアの聖母マリア信仰もメキシコ、合衆国のスペイン人が入植した地域で拡がった。

ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・カンデラリア教会

少年たちが聖母子像を発見した後、聖像は近くの洞窟に移され祠を作って崇敬されていた。その洞窟の近くに17世紀後半にヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・カンデラリア(カンデラリアの我が貴婦人)教会の前身の教会が築かれた。最初の教会は 3 つの身廊と高い塔を持つ大きな教会だったが、1789 年 2 月 15 日に発生した火災により消失した。その後ドメニコ会の修道士たちが再築に着手したが資金不足のために長いこと工事は中断していた。1826 年「ラ モレニータ」のオリジナル像は大雨のために消失し、現在の聖母子像が1830年に復刻、祝福された。
その後何度か教会の再建計画があったが資金の問題から頓挫し、現在の教会が建築されたのは第二次世界大戦後、12年歳月をかけて1959年に聖堂が完成し、スペイン駐在教皇大使とカンデラリア司教により祝福された。

前夜祭の夜の蝋燭のプロセッション

主の奉献の日の2週間ほど前から始まるカンデラリアの聖母マリアの祝祭事のハイライトの一つ、光のプロセッションは2月1日の夜に行われる。カンデラリアの聖母マリアはカナリア諸島の守護聖人になっていることから全島から多くの信者がプロセッションに参加する。カンデラリアはスペイン屈指の巡礼地で年間250万人が大西洋の孤島の聖地を訪れる。

蝋燭のプロセッションには島内のみならずスペイン本土からの参加者も

深夜遅くまで蝋燭を持った島民、巡礼者たちがカンデラリアの町を祈りながら行進する。

ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・カンデラリア教会の2月2日の特別ミサ

かっては聖燭祭とも呼ばれていた「主の奉献」の日、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・カンデラリア教会で午前11時から特別ミサがある。司教が司式する特別ミサには島民の多くが参加する。

特別ミサの後、カンデラリアの聖母子像は教会の横の広場を一周

特別ミサの後、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・カンデラリア教会に隣接するラ・パトローナ・デ・カナリア広場Placa de la Patrona de Canariasを王室近衛兵に守れて御輿は一周。パトローナとは守護聖人の意味で聖母マリアがカナリア諸島の守護聖人になってから命名された広場。

銀製の天幕内に顕示され広場を進むカンデラリアの聖母子像

銀の台座、天幕の御輿に載せれた聖母子像は、大歓声の中、広場を厳かに進み、聖堂に戻っていく。広場にはカナリア諸島のスナック、スイーツの屋台などが立ち、午後は広場で祝祭事の余韻を楽しんでいるか?のようだった。

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