南フランス、アジャンの乙女殉教者
フランス南西部アジャンAgenに4世紀初頭ディオクレティアヌス帝のキリスト教徒迫害で殉教した乙女殉教者聖フォワがいる。5世紀頃まで存在すら知られていなかったが聖女の聖遺物が数々の奇跡を起こしたことから一躍人気の聖女となった。
フランス南西部に中央山塊Massif centralと呼ばれる巨大な山地がある。その南部の緑深い丘陵地帯にサンチャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の宿場町にもなっているコンクConquesがある。
中央山塊を水源とするドゥルドゥ川とウシュ川が合流する地点に5世紀頃から集落があったらしい。二つの川が形成する村の地形が、この地方のオック語で貝殻(コンカスConcas)に似ていたことからコンクConquesと呼ばれるようになった。この町が著名になったのは、近くのアジャンから九世紀後半に聖フォワの聖遺物が移葬され、さらに10世紀から始まったサン・チャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が始まり、聖フォワの聖遺物が数々の奇跡をもたらし、巡礼者が増加した。戦争捕虜、冤罪の人が解放され、盲人が目が見えるようになったなど奇跡の枚挙にいとまなかった。
アジャンの聖フォワ(羅語フィデスFides) Sainte Foy d'Agenの生涯の詳細は分かっていないが、291年頃フランス南西部のアジャンで生まれ、303年に妹聖アルバータ、当地の司教だった聖カプレなどと共に殉教した。聖フォワは金属の格子に縛り付けられ虐待され、辱めを受けたのち斬首の刑で殉教した。その後、聖フォワの存在は忘れられていたが5世紀頃に聖遺物が発見され、奇跡をおこしたことで著名な聖女となり、聖フォワのお蔭でアジャンに多くの信者が訪れた。そのことを知ったコンクの修道士がアジャンの教会内部に入り込み、苦節幾星霜、アジャンの管理者たちが油断した折にコンクに持ち帰ったとされる。いわゆる「聖なる盗み」であった。
聖フォワの聖遺物が9世紀末にコンクに移葬されて以来、コンクには多くの巡礼者が訪れた。10世紀頃からスペイン北西部のサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼が始まり、フランスから出発点の一つル・ピュイ・アン・ブレからの巡礼路がコンクを通過していたことが中世にコンクを巡礼地、宿場町にした。11世紀にコンクに修道院が築かれ、その際に現在の聖フォワ修道院付属教会が築かれた。
聖フォワの記念日、10月6日に聖フォワ修道院付属教会裏の宝物殿から聖フォワの聖遺物容器が出され、広場で式典が開催され、ここから修道院付属教会の主祭壇までプロセッションがある。
聖フォワの聖遺物容器と共に、修道院付属大聖堂入り口門上部のレリーフはロマネスク彫刻の傑作として知られる。上部に審判を下す神、その下に天国と地獄が彫られている。地獄にはロマネスク様式の芸術らしく魑魅魍魎が跋扈している。現在、一般的に教会外部のレリーフは石の色むき出しで無色になっているが、この教会のレリーフには微かに色彩が残り建立時の面影を残している
サンチャゴ・デ・コンポステーラ(SQC)の巡礼路の出発点はフランス国内に四つある。SQCへの巡礼は10世紀頃からコンクから約100KM離れたル・ピュイ・アン・ブレーから巡礼者が多く旅立ったこともあり、コンクには聖フォワの巡礼地でもあり、巡礼者にも人気の宿場町になった。
聖フォワはフランス語、スペインでも人気の乙女殉教者でスペイン語でサンタフェ。米国のスペイン人開拓地域、スペイン語圏でサンタフェの地名が多い。
巡礼者、囚人、兵士の守護聖人。
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