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"無原罪の聖母"が生んだグラナダのケーキ
旅先で珍しいスイーツを探すのも私の旅の楽しみの一つ。それも聖人の名前が付いたスイーツならば嬉しさも倍増だ。スペイン南部のグラナダ(Granada)を訪れた折に、福者・教皇ピオ九世(Beatus PP Pius IX)に由来するケーキ(Pasteleria)、「ピオノンノ(Pionono)」を見つけた。
スペイン南東部に1238年から1492年までイスラム教徒の王朝が支配するグラナダ王国(Reino nazarí de Granada 正式にはグラナダのナスル王国)があった。その中心都市グラナダ(Granada=スペイン語で「柘榴(ざくろ)」の意)は、柘榴の産地であったことから命名されたという。長い間グラナダを守ってきた「グラナダの要塞」はザクロの皮のように防備が強固で、幾たびか敵軍の攻撃から王家を守ってきた。要塞の中に入ると甘味なザクロの実のような美しい庭園、イスラム文化の精華ともいえる豪華な宮殿がある。グラナダの城塞は小高い丘の上に築かれているので、坂道が整備されている現代でも訪れるのにひと苦労する。兵器を背負って急勾配の坂を上り降りした兵士たちの苦労、難行は想像を絶する。
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小高い丘の上に軍艦が停泊しているような「アルカサーバ(Alcazaba=要塞)」の先端には砲台が置かれ、グラナダの街を睥睨していた。王はキリスト教徒の敵軍と同時に民衆の謀反を恐れていた。「アルカサーバ」の先端の高さ45メートルの塔の頂きから眼下にグラナダの街が見渡せる。街の中央には16世紀に築かれたグラナダの大聖堂(Catedral de Granada)がある。
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2城塞の取材の後、坂道を降りると街の中心地の広場に面して、カフェも併設するケーキ屋があった。カメラを2台持っての長い坂道の上り下りで疲れてしまい、休憩に入った。
ケーキ屋の店員に「グラナダで一番有名なケーキは?」と聞くと、丸い小さめのケーキを指した。名前を聞くと「ピオノンノ」という。
「"ピオノンノ"って"教皇ピオ九世"の意味?」と聞くと頷くので、「ピオノンノ」と「カフェ・コン・レッチェ(Cafe con Leche=スペイン風カプチーノ)」を頼んだ。
「ピオノンノ」はロール・ケーキを立て、その上に丸い帽子を載せたようなケーキで、サイズも小さく一口でも食べられそうだった。
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スペイン人は甘いものが大好きな人種らしく、街中を歩いていると、至る所にケーキ屋さんがある。中には「ピオノンノ」の専門店もあった。訳知りそうなケーキ屋の女性ご主人に聞いてみると、グラナダ近郊のサンタ・フェ(Santa Fe)のケーキ店「イスラ屋(Pastelerías Casa Isla)」の先々々代のご主人、チェフェリーノ氏が聖母マリアを篤く崇敬していて、1854年に聖母マリアの無原罪の御宿りを教義として宣言したピオ九世に敬意を表して造ったケーキだそうな。よく見るとケーキの上部には教皇冠と思える丸い帽子が載っている。
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スペイン、とくに南部のアンダルシア地方はピオ九世が教義にする前から無原罪の御宿りへの崇敬が篤く、教会などには無原罪聖母マリアの像や、幼き聖マリアに教育を施す聖アンナの絵などが多い。
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聖人録
ピオ九世
Pius IX
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ピオ九世の本名は、ジョヴァンニ・マリア・マスタイ・フェレッティ。イタリアのアドリア海に面した港町アンコーナに近い漁港セニガッリア(Senigallia)の貴族の息子として1792年に生まれた。6世紀、今日まで続く司教区がセニガリアに創設され、ピオ九世が生まれた頃は教皇領で宗教色の強い街だった。幼い時から癲癇(てんかん)症で司祭の道を危ぶまれていたが、故郷セニガリアで神学生の時にナポレオンによりフランスに幽監されていた教皇ピオ七世の知己を得て、教皇からの支援を受けて神学の勉強を続けた。1819年に司祭に叙階され、ローマの孤児院「タタ・ジョヴァンニ」の学長を務めた。35歳の若さでイタリア中部スポレートの大司教、40歳でイモラの大司教、48歳でローマの司祭枢機卿に任命された。
1848年、グレゴリオ16世の死去に伴うコンクラーベ(教皇選挙)で教皇に選出され、自分の後ろ盾になってくれた民主的なピオ七世から教皇の名前にピオ九世を選んだ。ピオ九世の在位中にイタリア内戦、統一、フランス軍の教皇領防備、ローマからイタリア中部の海岸の町ガエタへの逃避、教皇領の縮小などイタリア激動時代を生きた教皇だった。
1854年に無原罪聖母マリアの教義を公式に宣言し、1870年には最初のヴァチカン公会議を開催、教皇の管轄権と無謬(むびゅう)性を教義として確立した。ローマを占領していたフランス軍が撤退すると、イタリア王国はローマを占領し、教皇領を解体したためにピオ九世はヴァチカンの教皇宮殿に閉じこもり、自らを「ヴァチカンの囚人」と名乗った。ピオ九世以降の教皇たちも1929年にムッソリーニとラテラノ条約で和解するまでヴァチカン宮から出ることはなかった。ピオ九世は政治力も持った最後の「パパ・レ(Papa-Re=教皇王)」と呼ばれた時代もあった。ピオ9世はドン・ボスコのサレジオ会設立を支援したため、「ドン・ボスコの教皇」とも呼ばれていた。
ピオ九世の在位中に日本の信者発見のニュースが伝えられ、隠れキリシタンの信者発見に貢献したプチジャン司祭は1868年にローマでピオ九世に謁見した。
1878年2月7日闘病生活の末、幼い頃からの持病である癲癇に苦しみ、心臓発作を併発し85歳の生涯を閉じた。教皇在位31年間8か月は、初代ペトロを除く歴代教皇最長の在位期間であった。
ピオ九世の業績に対して生前から毀誉褒貶(きよほうへん)、当初イタリア政府の反対もあり、評価はさまざまであったが、紆余曲折の末、2000年に教皇ヨハネ・パウロ二世により列福。
聖フェ(サンタ・フェ)
Santa Fe
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サンタ・フェ(Santa Fe 聖フェ、ラテン語:Sancta Fides 聖フィデス、英語:Saint Faith 聖フェイス、フランス語:Sainte-Foy 聖フォワ)は、3世紀末、もしくは4世紀初頭に南フランスのアジャン(Agen)で殉教した乙女聖女とされるが、人生の詳細は知られていない。
言い伝えによると、3世紀末の南フランスの貴族の娘で地方のローマ総督にダイアナの女神に生贄を奉じるよう強要されたが、それを拒否したために、青銅の格子に縛り付けられ焚刑に処されたが天使(鳩?)が舞い降り、羽搏いて火を消し、宝石と真珠の冠と白い衣装を授けた。その後、兄弟と共に斬首の刑で殉教したといわれる。
死後、目が見えなくなった人の目を治したと言われる。
サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼路にあるフランス・コンクに聖フォワの聖遺物を顕示する大聖堂があることから、巡礼者たちを通じてスペイン各地に聖フォワ信仰が伝わった。スペイン人たちが新大陸に移民し、開拓した町にサンタ・フェと命名した町が多い。
各国語共にフェ、フォワ、フェイスが"信仰"を意味することから、この聖女を信仰する国々が多い。
巡礼者、囚人、兵士の守護聖人。