翻訳の「正しさ」とは?
たしか二、三ヵ月前にD・H・ロレンスの短篇小説「薔薇園に立つ影(The Shadow of the Rose Garden)」を読んで、なるほどこういう物語だったのかと納得してそのままにしていたのだが、ここに感想を書いておこうと思って、たまたま図書館で井上義夫訳のちくま文庫版(2010.11.10)で新訳が出ていることを知って「薔薇園の影」を改めて読んでみた。
さすが新訳だけあって読みやすいと思ったのだが、ところで最初に読んだ時に引っかかった点が見当たらないのである。
おかしいなと思って、最初に読んだ岩倉具栄訳の新潮文庫版(1957.12.25)を読んでみて引っかかった点を思い出したのであるが、最初に「薔薇園に立つ影」のあらすじを新潮文庫版の訳者解説から引用してみる。
間違いなく井上義夫訳の「薔薇園の影」の方が洗練されていて読みやすいのだが、岩倉具栄訳の「薔薇園に立つ影」でなければ気がつかない点がある。それは妻の夫のフランクが、かつての妻の恋人にただ嫉妬しているわけではなく、妻は海軍中尉だったその男の娼婦だったのではないかと疑っているという点である。
興味深いのは、井上義夫が「愛人」と訳している「Lover」を岩倉具栄は「恋人」と訳していることで、「愛人」と訳してしまうとお互いが合意のもと(=契約)でそのように付き合っていたという風に聞こえるが、「恋人」ならば妻の一方的な好意と認識できることで、実は妻は娼婦だったのではないかとフランクと共に読者は気がつくのである。つまり訳の「粗さ」が逆に小説の理解につながるという皮肉なことになっているのである。
その後、かつての男が狂人になっていることを知ったフランクは自分が梅毒に感染しているのではないかと脅えだし(The Shadow of the Rose?)、妻のもとを去っていくのである(After some minutes he left her and went out.)。「薔薇」とは梅毒の暗喩ではなかったか?