『炎の肖像』と「ネガティブキャンペーン」
沢田研二の初主演映画『炎の肖像』(藤田敏八・加藤彰共同監督 1974年)は、今となって観るとストーリーの辻褄が合わない駄作のような感じである。
簡単に筋を辿ってみるならば、冒頭は街中で座っている鈴木二郎(沢田)の周囲にファンたちが群がって沢田に色々と質問した後に、場面が変わって海辺で大喧嘩をした後で一人で舟に乗っている沢田は木刀で殴られ顔面血だらけである。
一人で恋人の小林絵里が待つ部屋に戻ると激しく愛し合い、喧嘩を見ていたという絵里に対して「俺は誰にでも喧嘩を売られる」と沢田は嘆く。
部屋を飛び出して道路を歩いていたら、たまたま通りがかった星野正弘のトラックに乗せてもらって、道路沿いの食堂で一緒に食事をしていた際、トイレから出てきた沢田は赤いオープンカーを見つけて乗ったのだが、間違ってエンジンをかけて星野のトラックにぶつけてしまい車のフロント部分を大破させてしまうのだが、そのまま逃げてしまう。
その後、沢田の自宅を骨董品を扱っている父親が今西きりこという女性を連れてやって来るのだが、きりこは友人の小林ひろに会って欲しいと沢田に言う。
喫茶店で沢田に会ったひろときりこは姉の絵里が書置きを残して自殺したと詰り、新聞で絵里が自殺したことを知っていた沢田はそれよりも一緒に食事でもしようと誘うのである。
その後、駅構内の売店できりこを見つけた沢田は「痴漢だ!」と叫ぶきりこを無理やり連れて行って、人気のない場所でキスをした後に、人通りが多い中で「俺はジュリーや!」「俺がジュリーなんやで!」と叫んだりしている。
数日後、ひろと共に沢田は絵里と最後に過ごした海辺のホテルに行き、一緒にモーターボートに乗るのだが、途中で一人だけ通りがかりの小型船に無理やり乗り移ると、モーターボートにひろを一人だけ残して去ってしまう。帰りがけに以前喧嘩していた大久保和夫と再会し、また喧嘩をするのだが、何故か意気投合して食堂へ行くと沢田は忘れ物の化粧道具を使って自身の顔に真っ白く濃い化粧を施す。以前車を壊したことで警察に連れて行かれ、自宅に戻ると父親の骨董品の皿を足で踏みつけて割ってしまうなど、沢田はロクなことをしないままで終わってしまうのだが、このドラマの合間に沢田研二本人のコンサートシーンが挿入されている。
例えば『金田一耕助の冒険』(大林宣彦監督 1979年)のように今となっては意味不明なのであるが、1974年当時の沢田研二の人気を考慮しなければ本作の制作意図は分からないと思う。
1967年にザ・タイガースのヴォーカルとして18歳でデビューして1971年にソロとなって1973年にリリースした「危険なふたり」の大ヒットで人気はピークに達する。一方で、人気による不自由さが沢田を苦しめたことは間違いないだろうから、本作はスターとしての沢田と同時に沢田の「本性」を晒すことで不自由さから逃れたかったのだと思う。その「露悪さ」の連なりだけの作品が今見る人たちには意味が取れないのである。
実際にこの故意の「ネガティブキャンペーン」後、沢田はタガが外れた(あるいは外した)ように1975年に最初の結婚をし、1975年12月、1976年5月と暴行事件を起こしている。つまりもう遠慮はしないし黙ってもいないという意思表示だったのであろうし、1974年頃からコンサートで化粧を始め、1979年リリースの「OH! ギャル」で完全メイクでテレビ出演したのもそういうことだったのだと思うのである(因みに1977年リリースの「さよならをいう気もない」から「OH! ギャル」まで作詞はピンク・レディーも手掛けていた阿久悠である)。
しかしこのような「ネガティブキャンペーン」にも関わらず沢田の人気に陰りが生じることはなく、1977年にリリースした「勝手にしやがれ」でレコード大賞を獲得し、1981年にはザ・タイガースを再結成させてこれまた「色つきの女でいてくれよ」をヒットさせているのだから、本当のスーパースターだったのである。