『エピクロスの園』の「アリストとポリフィル - 形而上学的言葉使い -」について
アナトール・フランスが1895年に上梓した『エピクロスの園』(大塚幸男訳 岩波文庫 1974.9.17)は芥川龍之介に『侏儒の言葉』(1923年 - 1927年)を書かせたといわれるほどの影響をもたらしたと言われているのだが、最近はあまり読まれていないようである。
しかしあまり読まれていないと言っても芥川も含めてこれまで多くの作品が多くの訳者に翻訳され、いまでも長篇小説は新訳が出ているのだからたいしたものではある。何より『エピクロスの園』は社会評論なのであるが、例えば今ベストセラーになっている社会評論の何冊が100年後にも読まれているかと考えるならば、ほぼゼロであろうから、さすがノーベル賞作家なのではある。
ここでは『エピクロスの園』の中の「アリストとポリフィル - 形而上学的言葉使い -(Ariste et Polyphile ou Le Langage Mètaphysique)」を取り上げてみる。これは形而上学者(mètaphysicien)のアリストに対してポリフィルが質問する対話篇で、ごく簡単に説明するならば、言葉は磨いて洗練させていくと抽象的になり、当初言葉が備えていた「実感」を失ってしまうのではないかということである(かなり荒い筋なのでここは20ページほどの文章を、是非読んでみて欲しい)。
ポリフィルが具体例としてエレア派(L’école éléatique)からフランスの哲学者のジュール・ラシュリエ(Jules Lachelier)まで網羅したある本の中から以下の文章を挙げている。
ポリフィルがそれぞれの単語に「若い明るい顔を与え直す(en rendonnant à cet mots leur jeune et clair visage)」として以下の文章を記す。
しかしポリフィルは上の文章は「比喩的表現はここで先験的図式に帰せしめられているが、その先験的図式もまだ比喩的表現のままである(L'image y est réduite au schéma. Mais le schéma c'est l'image encore.)」としてさらに以下の文章を記す。
ところで上の文章は「霊魂はそれが『絶対』の性質を帯びるその度合いに応じて神を所有する。」という文章を「分かりやすく」した文章のはずなのだが、理解できた人がいるだろうか? 筆者にはよく分からなかったので、敢えて元の文章に寄せるような感じで拙訳を試みようと思うのである。
最初に上の文章の原文をアナトール・フランスの『全集第9巻(Oeuvres Complètes TomeⅨ)』(Calmann - Lévy Éditeurs 1927 Paris)から書き出してみる。
最初の文章を拙訳してみる。
全く繊細(délié)かあるいは微妙(subtil)なものとして受け取る贈与の一塊(boisseau)を輝かせる(brille)者の上に霊感(Le souffle)は落ち着く。
二番目の文章を拙訳してみる。
霊感(le souffle)が生きる証し(un signe de vie)である人間というものは、(おそらく霊感が発散させられた後で)生命の源で中心の(source et foyer de la vie)神々しい熱っぽさの中(dans le feu divin)を占めるだろうし、この激しい霊感、この見えない小さな魂を自由な空間(おそらく無限(le bleu du ciel))を介して広げるために(私の想像では守護神たち(les démons)によって)人間に与えられた美徳で、この人間に占められた場所は人間に評価されるであろう。
上の文章が「霊魂はそれが『絶対』の性質を帯びるその度合いに応じて神を所有する。」を「分かりやすく」した文章である。分かりやすくなっただろうか?