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会津本郷焼との縁 ~民報サロン3回目~
今回は「民報サロン」3回目です。
~以下民報サロン記事~
私は5歳のころに裏磐梯に引っ越してきました。中学までを裏磐梯で過ごし、仙台市での学生・フリーター生活、従兄のビジネスに加わる形で、約2年東京で生活をしておりました。
東京から裏磐梯に帰って来てからは、実家で家業の手伝いなどをさせてもらいながら、1年間の職業訓練校を経て、会津美里町復興PRキャラバン事業の一員として活動することになりました。
会津美里町復興PRキャラバン事業は会津美里町の産品や観光名所などを町外や県外の方に紹介し、会津美里町のファンになってもらう事業で、私たちは会津美里町の産品、観光名所などをお客様に紹介することが出来るよう、町内3地区(高田・本郷・新鶴)の様々な所を回り研修を行っておりました。
ある日の会津本郷地域研修、会津本郷焼の窯元さんや会津本郷の町なかを歩いたりする中で、町なかの風景や会津本郷焼の器が前にも来たことがあるような、見たことがあるような感覚を覚えました。最初は気のせいかと思っていましたが、会津本郷の色々な所でそれを感じるので、どうしても気になってしまい両親に聞いたところ、東京から裏磐梯に引越して来てすぐ、会津での初めての家族行事が会津本郷町でのウォークラリーに参加した事があったということを聞きました。当時幼かった私ですが、東京とは違う風景の町なかを歩いたことが記憶の中に強く残っていたようでした。
また、器を見たことがあるような気がしたのも当然のことで、小学生の時に入団していたボーイスカウトの陶芸体験で訪れたのが宗像窯さんで、その時に作った器を実家で使っていたり、小さいころ私が使っていたご飯茶碗が流紋焼さんのお茶碗であったりと、私の幼少期には会津本郷焼の器が身近にあったという事が分かりました。
その時から私は会津本郷町や会津本郷焼とは何某かの縁を感じていました。
その後、復興PRキャラバン事業で全国を飛び回り、会津美里町の産品や観光名所のPRを行っていましたが、キャラバン事業の雇用期間が終了する年に、会津本郷焼組合の代表理事とお話をする機会がありました。
会津本郷焼組合の事務局を仕切っていた方が定年退職をされるという事と、事務局の若返りを図りたいとのことで、雇用期間終了後の就職先が決まっていなかった私にお声を掛けてくださいました。
長い歴史を持つ伝統的工芸品の振興・発展に関わるという仕事は、なかなかない職業であったので、とても興味を持ちました。ですが、私の今までの職歴と言えば、学生・フリーター時代と東京にいたころの飲食店での勤務経験しかなく、一般的な社会経験が全くない状態だったため、会津本郷焼組合の事務局としての多岐にわたる業務が自分に務まるのかとても不安に思っていました。
「人生は運と縁とタイミング」という言葉があります。「会津本郷焼組合の代表理事と知り合えた運」、「小さいときから身近にあった器を通じて感じた縁」、「事務局の若返りを図るというタイミング」を大事にして、ビビっていないで思い切って飛び込もうと思い、会津本郷焼組合でお世話になることを決めました。
~4回目に続く~