「時間」とは?
今回は割と近代文学とかその辺の話題です。
「おい、今何時だと思っているんだ、わかってんのか?」
「時間がねぇんだよ、こちとら。わかってんのか?」
「「ちょっと何言ってるかわかんないですね!!!」」
こんにちは。上記のようなやり取りが日常茶飯事、ちくわです。時間って一体何なんですかね。
「お前はそんなこともわからないのか?」
と思われたあなた。時間って一体何なんでしょうか?
例えば、我々は目の前の運動や物質の状態の変化などと「時間」とを結びつけて考えるし、そこの結合はア・プリオリ(先験的)なものだと思うのが所謂「普通」の感覚だ。
あるいは、時計を見て「時間」が経っていることを認識する、とかスケジュールを確認してそこから「あと◯◯時間」と逆算するとか、そういった人工的なもので「時間」を認識するだろう。
ところが、この「時間」というものが厄介である。というのも、「時間は存在するといえるか」という命題を出した時に、「物質の変化」であるとか「事物の移り変わり」であるとかを存在の根拠として挙げたところで、その観念の前提には「時間」がある。となった場合、議論としては論点先取にならざるを得ない。
「時間」と聞いて何を想起するだろうか? 恐らく、「一分」とか「一秒」とか単位として細分化された概念かもしれないし、あるいは「時計」みたいな、可視化されたものなのかも知れない。
ところが、「一秒」とか「一分」とか、あるいは「時計」とかそういった概念を理解する前の子どもであれば何を想像するだろうか? 多分、漠然と「親を待っている時の感覚」の「長い/短い」とかそういったものだろう。
あるいは、有名なパラドックスでゼノンのパラドックスがある。
これは「そもそも分割不可能なものを分割してはならない」といった提言であるが、はからずも「時間そのものを分割して考える」といった認識の方法の限界を提示しているとも考えられる。
恐らく、日常的に理解している、分割可能な概念としての「時間」と実際に存在しているであろう「時間」とは大分ギャップがあるのかも知れない。
さて、「時間」に関してつらつらと書いたところで、「時間」に関して述べた哲学者を一人取り上げてみたい。
一人はアンリ・ベルクソンだ。私が読んだ限り、ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』など、トーテミズムや宗教関係の論文の他、「笑い」といった「認識そのものに対する思弁的な議論」というよりはむしろ「民俗的な視点なり人間の行動からの切り込み」といった議論といった印象がある。
そのベルクソンであるが、「時間」に関する議論で「時間とは意識の連続である」といった旨のことを述べている。
「意識の連続? なにそれ? いや他にもっとあるだろ」と思うかもしれないし、私もその一文だけ見た時に「いやなんか新しいこと述べてんの?」とか思った記憶がある。
だが、「時間」について考えれば考えるほど、結局その「意識の連続」以外に確実にいえることはなくなってしまうのである。
例えば、寝ている時に時間が経っているのは経験的にわかるが、数年間意識を失っていたとしたらどうだろう? 本当に数年間も経っていたのか、という疑問が浮かんでくる。状況を確認して納得するまでにしばらく時間がかかるはずである。
丁度「浦島太郎」のような状態になると思われる。
となった時、「時間」とはまさしく「意識の連続」に他ならない。
文学に話を移そう。
主人公ないし語り手の「意識の連続」が途切れた時、つまり「いつの話だろう」となった時、一気に読み手の認識する物語内の地盤が揺らぐように思われる。更に、その「意識の連続」が途切れた上に「語り手の記憶」もない状況であったらどうだろう?
読み手としては、「多分」とか「らしい」といった、推量なり伝聞なりで物語自体を判断するしかなくなるわけである。
そんな小説なんてあるの? と思われるかもしれないが、ある。有名な小説なので知っている方もいらっしゃると思われるが、夢野久作『ドグラ・マグラ』である。
『ドグラ・マグラ』では、主人公の視点の他に手記など、更に別の視点が介在する。「読者」というメタ的な視点を以て作品を語る、ある意味で「語り手≒読み手」のような視点を作ることで、「読むたびに黒幕が違う」といった解釈の幅を生み出しているのではないかと思われる。
近代文学は専門外だけど、ふと「時間とは何か」と思い記した。