読書録/世界の辺境とハードボイルド室町時代
「世界の辺境とハードボイルド室町時代」
高野秀行・清水克行 集英社インターナショナル
現代のソマリランドと室町時代の日本が超似ている!という話題性に惹かれて手に取った一冊。全編対談で、「謎の独立国家ソマリランド」などの著書があるノンフィクション作家、高野秀行と、日本中世史が専門でNHKの番組「タイムスクープハンター」の時代考証を手がけた清水克行が、現代のソマリランドと室町時代の日本の類似点を語る、というものである。
似ている!と聞いて私が想像したのは、現代のソマリアが無政府状態で武装勢力が覇を競って跋扈するような状態であることと、日本の室町時代の応仁の乱にはじまる戦国時代の群雄割拠の状態が「似ている」ということだった。だが、そういう政情よりもむしろ、日本の中世の法制度や文化、風習の中に似ているところがある、という話で、それも似ているといえば似ているのだろうけど、それが何やねん、というところが多かったかもしれない。
だからといって面白くないわけではなく、例えば綱吉が「生類憐みの令」を出して犬を保護した理由とか、明治時代以前の日本も現代のソマリランドも自前の通貨を発行しておらず、それでもよその国の通貨でうまいことやっていたとか、帝国と辺境との関係性(中国文明に憧れてミニ中華帝国を目指した古代日本が、それを諦めて辺境になった)とか、繰り広げられる一つひとつのネタは面白く、それなりに引き込まれて読んだのだが、読み終わってみると、全体としての核がないというか、じゃあ、「似ているから、ほんで何やねん?」というところがモヤッとしたままで、言ってみれば、居酒屋の隣の席でしゃべっているおじさん二人のちょっとオタクな面白い話を聞きかじった「だけ」のような読後感しか残らなかった。
思うに、結局のところ、じゃあこれを知って次どうしたらええねん?というのが、対談した二人それぞれの本を手に取ってみるかー、というところに落ち着く感じで、ひょっとしたらそれが狙いか!と思えるような本づくりであった。
読後のもやもや感の一つには、ソマリアの現状に対する懸念がある。ちょうど難民問題に関するワークショップのテープ起こしと報告書を作る仕事をやったところで、その話の中でソマリア難民の事例も出てきたところだった(だからこそ、本書に興味を持ったともいえる)のだが、悲惨な現状に置かれている人々がいるソマリアの中で、ソマリランドというところがどういう状況なのかあまりよく知らないために、500年前の日本と比べてあれこれ論評することに、そこはかとない後ろめたさのような感情を抱くのだ。
ところで、日本では歴史は「世界史」と「日本史」に二分されているが、そもそも日本は世界史の大きな流れの一部に位置づけられる。だから本当は、世界の歴史の一部として、切り離さずに、世界の歴史のどういう位置にいて、どんな影響を受け、どんな影響を外部に与えたかということが常に意識できるような学びができたほうが、これからの日本や世界を見るときに、ずっと役に立つものになると思う。
その意味で、ソマリアと日本とを比べて「似ている」事実を見いだすことには意義があるとは思うのだが、ただ似ているではなくて、それが、それぞれに固有の文化や風習が「たまたま」似ているのか、あるいは、文明の発達段階の中で、中世の時期にある場合にはだいたい似たような文化、風習が現れるという意味で似ているのか、そういうところまで明らかになると、もう少し、単に「面白いネタ」以上の何かに昇華していく可能性がありそうだと思ったが、残念ながら、そういう総合的な視点で点と点を線にしていくような働きのできる人材が、不足しているのかもしれないと思った。
そもそも、いくら発展途上国とはいえ、500年前の日本と似ている、というのは少々失礼ではないだろうか…と思いつつ、改めて考えてみて思ったのは、果たして本書でいう「辺境」って一体どういう場所なのか、ということだった。ソマリアは、政情不安定なために渡航が極めて難しいという意味では辺境であろうが、大きく見れば「イスラム文明圏」の中にあり、それゆえイスラム過激派による内戦の泥沼化という、極めて現代的な課題に悩まされている。それに対して日本は、と思ったときに「ああ、そうか」と思ったのだ。日本こそ、実は世界の辺境じゃないか、室町時代から戦国時代の動乱期に、西洋文明がキリスト教宣教師によってもたらされたときこれを拒絶し、自ら、どこの文明圏にも属さないで、辺境の国で居続けることを選び取り、それを現代に至るまで固持してきたのではないか、と。西洋文明の中の端っこに従属する国になるよりは、固有の文化、固有の習慣、固有の価値観、固有の宗教観、固有の美意識を持つ独自の国でありたい。そうして、いろんな文明のいいとこ取りをしながら、核はあくまで神聖にして侵すべからず領域として守り、最も文明化された世界の辺境として、独自の存在で居続けようとしているのではないだろうか。
ためしに500年前の日本と比べてみると、変わっているところももちろん多いけれども、「日本的」と言われるものほど、ずーっと変わらないでいるのではないか。案外その「日本的」なるものは、世界の辺境にありふれているものなのかもしれない。
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