【拝啓 私】人の為にと思って頑張ってた時の私へ【手紙note】
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拝啓 私へ
お元気ですか?
これを見ている私は、いつの時代の私ですか?
どの私でもいいから、見てくれてる事を願って書きますね。
今の私が生きている時代での大きなニュースは、
「自動車メーカー日産の会長カルロス・ゴーン氏が巨額の報酬を隠したとして、金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)容疑で逮捕された」というものです。
もちろん私は当事者でもなければ詳しい情報を入手しているわけでもないので、内容に対する見解はないですが、
今の私がこのニュースを見て思うことは、
【一度起こしてしまったことで過去の苦労や功績がすべて水泡と化すことはどうか】
ということです。
確かに法律上では決められた手続きをしなければならないとされている。
だが、今迄の会社が社会に多大なる影響を与えてきたことへの恩恵を受けてきた人は、
世界各国相当数居るはずである。
会社の利益を一部私的に利用したとしても、
それが会社の経営を大きく揺るがすようなものであれば見直しや改善も必要であると思うが、
過去の功績から給与以外の経費利用くらいはそこまで大事にすることなのかと疑問に思う。
だってぶっちゃけバレなきゃ解らなかった事だし、それでも回ってたんでしょ?
見逃していた国の体勢的には問題ないのか?と問いたい。
バレてから追徴とか、国の自己責任は法律という権力を笠に着て、現体制の見直しに着手することはない。
憲法改正は常に不自由を増やしていくことしかしない。
不自由を強要すれば、自由を求めてくる欲求を増大させるだけだ。
これは国が税金という形で強制的に「利益に対してこれだけのものを納めて当たり前」という傲慢さが招いた事件という見方はできないだろうか。
そう捉えると、今の常識が生み出した事件とも見ることが出来る。
企業に依存して国家経営をしているからこそ、
取れるべきところを見つけたから搾り取ろうという支配構造が見て取れる。
進んで国に納めたいと思える信頼関係を、
もっと国と企業が結んでいく必要があるのではないかと思うよね。
トップダウンじゃなく、
助け合いで協力して歩いて行けるパートナーシップを今後作れることを切に願うばかりです。
さて、今の私の話はここまで。
これから本題に入っていこうね。
今日私が伝えたい事、
それは【人の為にと頑張っていた】ことについて。
人から「有難う」と言ってもらって嬉しかったり、
「あなたのおかげで」と言われるともっと頑張ろうと思えたりするよね。
その言葉が欲しかったり、
あの笑顔が見たかったりして、
一生懸命頑張っていた私が居た。
それが貰える事で、自分の存在意義や価値を見出していたよね。
逆にそれがないと私に生きている意味がないと思ってしまう時もあった。
だから人の役に立って認められたり賞賛されたいが為に頑張っていた私。
どうですか?
頑張れていますか?
望む人からのリアクションは貰えていますか?
今、生きてて良かったと思えていますか?
正直言うとね、
今の私はその生き方を辞めました。
もしこれを読んでいるいつの時代かの私が、
人の為に頑張る事に疲れてしまっていたら、
これを見て一つの参考にしてもらえると嬉しいです。
人の為に頑張るってね、
「有難う」や「頑張ったじゃん」とか「あなたのおかげで」なんかの言葉だったり、
お礼なんかの物だったりの報酬を心のどこかで求めてしまうことに気が付いたんだ。
これって、
『人の為に頑張る』ことは、
本当は『私への見返りの為に頑張る』を目的にしてしまってないかって。
例えばね、
親に頼まれ事されたとして、
それを断るとおやつを減らされたりしないっていう「私にとって不利なことを避けたい」という自分の欲求を叶える為に断らなかったり、
その時「ついでにお菓子買ってもいいよ」って言ってくれるかもしれないっていう「私の利益になるかもしれない」という希望があるから進んでやったりしてなかったかな?
好きな人からのお願い事も、
「断ったら嫌われるかもしれない」という私の心が傷付かないように、
それを避ける手段としてお願い事を叶えようと頑張っていなかった?
言われた事を断らなかったり断ったりしてたのって、
相手の強制力や私に何の利益が無かったとしても、
「全部私自身が決めていたよね」。
断れない状況だったとしても、断らない選択をしたのは自分だった。
どっちの方がいいかということを、
私の不利が少なく、
利益が大きいことを計算して決めていた。
違うかな?
私は常に、私の為にすべてを決めていたんじゃないかなって気付いたんだ。
そしてそれは大体は、相手からの発信を元に決めていた。
この相手には〇〇な対応しておくと不利益は少ないとか、
この状況の時は〇〇していても大丈夫だからとかね。
警察官が交差点に立っていない時に、
どうしても急いでいる時は信号が点滅していても走って渡ってしまったことってないかな?
もし警察官が立っていたら、
どれだけ急いでいても信号は渡らないと思うんだ。
もしかしたら信号じゃないところを選んで渡るかもしれないね。
これってさ、
どっちにしても自分の利益を考えて動いてると言えない?
捕まったり注意されるリスクがあることはしない。
リスクが無い時は自分の都合優先で行動する。
どちらも警察官の為じゃなくて自分にとって良いように選択してると思わない?
こうしていろいろな状況を考えてみても、
人の為と思ってやっていることの心の裏側には、
全部自分の為にやっていたんだってことに気付いちゃったんだ。
人の為になんか何一つやってなかったんだって。
助けてあげたいのも「助けてる私でありたい」からやってるし、
人に注意するのだって「こっちの方が良いと思う」からっていう私の正しさに賛同してほしいから。
注意したことをやらなくてムカッとしてしまうのは「私が正しいと思った事をしてくれなかった」から、
否定された気持ちになって悲しくて辛いからだって。
私は、
見返りが欲しくて全ての行動をしていたって気付いた時に、
汚い心の持ち主だなって最初は思っちゃったんだ。
綺麗事言って結局全部私の為だったのかってさ。
でも今はね、
それに気付いたおかげで、
やりたいことしかしなくなったよ。
頼まれ事やお願い事をされたとしても、
相手にどう思われるかとか、
相手にその後を期待するとか言った気持ちは全くなく、
自分がしたいと思うか思わないかで決めるようにしてる。
今すぐするのか、
ちょっと後にしてほしいか、
ちゃんと自分の心に聞いて決めるようにしてるよ。
見返り前提でやると、
貰えなかった時に満足しなくなるから、
したいかしたくないかで決めると、
したかったらしただけで満足できるじゃん?
したかったからした、以上。
したくなかったからしなかった、以上。
シンプルでしょ?
よくよく考えてみたらさ、
頼まれるってことは断る選択肢もあるはずなんだよね。
強制されてたとしてもそれは同じだと思う。
だって自分の心で自分の体動かすことを、
私以外の人に正直どうこう言われて決められたくないじゃん?
だから、
したかったらするし、
したくなかったらしないか、
○○だったらするっていうこちらからの提案も込みで了承したりするかな今は。
相手の言いなり100%でしたいと思うこともあるけど、
そうじゃない時だって勿論あるから、
そのへんは交渉じゃないかなって考えるようになった。
だってよく考えてみてよ。
頼まれたらやってくれるって考えるのって、
逆の立場であっても傲慢だと思わない?
相手にも都合や感情ががあるわけだからさ。
それを気にしないって横暴じゃん?
そんな人間に進んでなりたくないと思ったんだよね。
だから、今の私は「人の為に頑張る」事は卒業しました。
「人為」=「偽(にせ)」とはよく言ったものだなって思ったよ。
今の私は、
「自分の為にやる事が、ついでに人の為になったらいいな」って、
楽に考えて生きるようになったよ。
今の私の生き方が、これを読んでいる私の為になってくれたら嬉しいな。
私が苦しんでるのを私が見過ごすのって、
他に誰が助けるの?って思うじゃん?
これは私がしたいから勝手にやってること。
これを見てどうするかも、読んだ私の自由だよ。
ただ、
少しでも参考にしようと思ってくれるのなら、
まずは自分の行動の裏にある私自身の欲求を見つけてあげたらいいんじゃないかな。
今の私が自分以外の人に対してどう思って接してるのかが少しずつ解ってくると思うよ。
ひとつだけ付け加えると、
どんな自分でも自分を責めないでね。
こういうことを教えてくれる人が、
私の周りには本当にいなかったから、
いつでも我流で頑張ってきただけ。
私は私なりに頑張って精一杯考えて生きてきただけ。
自分が気付かなかった私に改めて出会ったら、
よく頑張って今迄生きてきたねって労ってあげてね。
その方法でしか生きる術を知らなかった中で頑張ってきたんだからさ。
でも今からは、
選択肢が一つじゃないからもう少し自分の為に選べる生き方が増えるんじゃないかな。
これを読んだ私の心が、
少しでも自由と自分らしさを大切にして生きられますように。
敬具
追伸
そうそう、
これを読んでる私やその知人友人に
「病院行こうか行かないか悩んでる人」って居る?
もし居たらこれ読むと参考になると思うから載せておくね。
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