OH!へんろ。親子の88か所巡り(12番札所):摩廬山焼山寺(徳島県)
わたしが、子どもたちと決めた今回のお遍路ルールは一つだけ。納経所で御朱印をいただくのは子どもたちの役割ということ。ちゃんと挨拶をして、御朱印をお願いし、最後はしっかり御礼をする、です。
今日の煩悩
教育というのはそもそもは先人からの贈り物で次世代への贈与ではないかと思います。受け取った人はまたそれを次世代へつなぐのです。
寿命ある人間は、命をつなぐという意味合いと、社会をつなぐという行為を通じて「象徴的な不死」を実現するのかもしれません。
と、難しい話をするまでもなく、社会の存続のために受け取っていただかなくてはならないものは大人が子供に対して「お願いだから受け取ってくれ」というものでって、年長者は本来「教えたくてしょうがない」ものです。
しかしながら、何時のころからか、教育は「個人」が「良い生活」をするためのチケットをお金で購入するようなものになりつつあります。
「良い生活」のための「良い教育」を得るために高いお金を出して塾に行く。大学の学費をバイトで賄う。それだけ、個人的な「投資」をしたと考えれば、回収したくなるのも人情なのかもしれません。
日本は欧州型(コミュニティのための教育)よりも、よりアメリカ型(自分のための教育)を歩んでいるんだなぁ。
マイケル・サンデルが「TEDトーク」で、子供に勉強させるための金銭的インセンティブの話をしていました。アメリカで実際に行われた社会実験のようですが、読書をさせるために本1冊につき何ドルかを子供に支払うのだそうです。
その結果は当たり前かもしれませんが、子供が読む本の厚さがだんだん薄くなる。
「読書の冊数を増やす」「テストの点数を上げる」「難関校に合格する」。これらを「教育」と見做せば、まあ、インセンティブを差し上げるのも教育と呼んでいいのかもしれません。
しかし、大人たちが本質的に子供に手渡したい教育はそんなのではないはずですよね。「贈与の教育は次世代に社会をつなぐことが目的」だったわけですから。
でも、しょうがないかと思うこともあります。「これができたらお金を上げるよ」「お金をあげるんだから目標の数字を上げろ」という話は日常的に聞きます。教育を所掌している行政が、そういって補助金というインセンティブで教育機関に「数字」の成果を上げるように促すわけですから。お金がものをいうという教育をしてしまっています。
子どもたちは、見ていますよ。肌で感じていますよ。そういうの。
お金はですね、あげる側ともらう側に上下関係を作るんです。私だってやってしまいます。子どもにお小遣いを1000円あげた途端に、息子がうまい棒を90本購入すると言ったら(本当にやる彼ですが)、「いやいや、もう少し買うものを考えろ。文房具なんかどうか?」と口出しをしたくなります。
まあ、うまい棒は例としてあれですが、結局、「お金を提供する」側が納得する用途しか奨励されないのです。
そうするとですね。「本当にニーズがあり、効果も上がるかもしれないけれど、使途がグレーゾーンと判断されるそうなもの」には(文句言われるリスクを避けて)使おうとせずに、あまり効果はないけれど「やった感」がでるイベントやなんかに使おうということになるのです。
こういうの、国際援助とかも同じだと思います。そろそろ、お金の使い方を皆で考えないといけませんね。
御詠歌:
後の世を思えば恭敬焼山寺 死出や三途の難所ありとも
本尊:
虚空蔵菩薩
創建:
弘仁6年(815)
真言:
うぼう あきゃしゃ きゃらばや おん ありきゃ まりぼり そわか
歴史:
弘仁6年頃、弘法大師が一本杉で休んでいた時に、阿弥陀様の夢を見たそうな。大師が麓の川で身を清めて山に登ると、大蛇が全山を火の海にして妨害した。大師は虚空蔵菩薩の御加護のもと岩窟に封じ込めた。そして自ら彫られた三面大黒天を安置し、大蛇の火に悩まされていた人々を救うべく祈願するのでした。大師は焼けてしまった山を「焼山寺」と名付けたそうです。
所在地:
徳島県名西郡神山町下分字中318
駐車場:
普通車/300円
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