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身内

日本語の言葉の響きは世界的に珍しいものがあり、深い意味を含んでいる言葉が多い。
身内という言葉が気にかかってしまった。

みうち【身内】
①からだじゅう。全身。「娘は━の痛みを抑へて、強ひて微笑んだ/刺青潤一郎」②家族や近い親類。また、それらに類したごく親しい関係にある者。「━だけで祝う」
③同じ親分に属している子分たち。

大辞林

大辞林にはこのような解釈が載っていが、もっと奥が深そうな気がする。

超古代の日本人には「我・汝・彼」の比較や区別はなく、全て「我」と同じ品格で扱ったようだ。

出雲と伊勢 山蔭基央

日本では自分を含め身内の全てを「我」とよんでいたことがわかる。
周り全てが「我」なので騙したり嘘をつく必要がないどころか、そんなことは考えもしなかったことだと思う。

縄文遺跡から武器が出てこない理由もこれによるのだろう。周辺全てが「我」なので争いも無いわけだ。

集落の中央に墓地を設け、自然に戻っていった祖先を敬っていた生活が見える。

西欧においては全く日本とは違う発想をしている。

絶対神を作り上げ、人間に原罪とやらをなすりつけて、禁止事項を列挙する。
「悪いことをすると最後の審判で罰せられるぞ」と取り決めた。これが宗教の始まりだ。

つまり日本人は全てを身内と考え、争うことはしなかったが、西欧においては相手を信頼することがなかったので、争いは絶えなかった。

人称は「I ・YOU ・THEY」と厳格に区別され、他人を身近に寄せつけることは無かった。そのままでは社会生活が成り立たないので、同じ宗教を信じているもの同士だけのサークルを作り上げた。

爾来、長い時間をかけて変化が進み、相手を信頼しない、自分たちだけの宗教を信じている人たちのグループがあちこちに存在する。これが争いの元凶になっている。

室町時代用語として「善・悪」が出てくるが、超古代では、善悪の対比ではなく、「良・吉・好き」で用いられていたわけで、「善」とは「めでたい」ことであった。

出雲と伊勢 山蔭基央

仏教の伝来と共に善悪の概念が日本に入ってきたのが、わかる。
仏教の伝来から、ことの善悪を言いつのるようになり、自他の識別化がはじまり、争い事がたびたび起こるようになってきた。

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