怖い仏教
なんとも強烈な題名の本を見つけた。
『仏教』はブッダが話したことを後世の人が書き記したものだとされる。如是我聞(自分が聞いたことはこの通りだ)とお経の中に取り込まれている。
お経は全て伝聞であり、ブッダの教えである『法』と、集団生活における生活規則である『律』によって構成されている。
伝えられているお経が膨大な量になり、どれが本物かわからない状況だ。その中から共通項目を探し出し最も本質に近いものを平野純氏がまとめている。
『神に頼るな』がブッダの立場 『あの世』と『神の世界』の共通項は「あるかないかわからない」ということです。それは我々のような地上に住む人間には確かめようがない。そんな不確かなものにとらわれ、人生や死後の平安について願い事をする、祈るくらいならば、さっさと自分で修行してなにものにもとらわれない心の平安を得たほうがましではないかーー少なくとも、ブッダの立場からはそういう話になる。(怖い仏教 p.204 平野純)
これを立証するための証拠として、『ディーガニカーヤ』という古い経典を探し出し、そこに書かれているブッダの言葉を述べている。
神々に懇願し、祈れば死んだ後に平安な世界にゆけるなどどいう話は、根も葉もない作り話に過ぎない。バラモンは彼らが行う祭祀で神を呼び出せると主張するが、それは河のこちら岸から向こう岸に向かって「向こう岸よこちらに来い、こちらに来い」と呼びかけるようなものだ。そもそも不可能な話である。(怖い仏教 p.205 平野純 『ディーガニカーヤ』より)
元来宗教とは、自分が安心して暮らしていくために自分の考えを捨て、すべて教祖の教えに従うものなのだ。教祖の言に疑義を挟む者はいない。教祖が生きている間、信徒は教祖の命令に従う。教祖が死んだ後に、教祖がいなくなった教団は教団維持のために権威付けを考える。
あらゆる奇跡をでっち上げて、いかに教祖が素晴らしかったかを言い伝えるのだ。荒唐無稽なものほど良い。生まれてすぐ3歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言った、とか空中からパンを取り出したとか。
下の絵はキリストの顔をイギリスBBCが復元したものだが美術館などに飾られているキリストの絵とは似ても似つかない。