(終)【連載小説】ある青年の手記 第Ⅲ章 (7)果たして神は存在しうるのだろうか?





 以上が僕がこの事件を通して感じた、考えたとても個人的なものごと(でもなるべくパブリックにも考えたつもりではある)だが、以下は今の僕が事件とはまた別に(あるいはどこかで繋がるのかもしれない。それはこの文を書いている今はわからない)考えていることであるから、ただの蛇足である。どうぞ読み捨ててもらって構わない。BOOK-OFFに売ればいくらかお金になるのかもしれない(売るなら早いほうがいい)。これで鼻をかむには硬すぎるし、お尻でも拭くようなら大量出血間違いなしである。

 それは「果たして神はいるのか?」という問題である。僕は生まれてこのかた無神論者だったので、そんな都合の良い存在がいようものならぜひともお目にかかってみたいものだなと思っていたのだが、この事件を通して、僕はそのことに対して何故かだんだんと懐疑的になっていき、今では「もしかすると神様はいるのかもしれない」と考えるようになって来た。
 まず、僕が職業的小説家になっているということが、その何よりの証拠だと思う。
 小説家という「肩書き」さえあれば、たとえ平日の昼間からマスターベーションをぶちかまして辺り一面に盛大に射精したところで(実際にすることは無いが)、誰からも何も言われないわけだ(そもそもの僕にはそう言ってくれる友達がいない)。缶コーヒーを片手に外回り中のサラリー・マンを横目に、僕が映画館に行って連続上映されているフランソワ・トリュフォーの作品群を観たり、本屋に行って彼らのかく三文…ではなく「血と涙の結晶」に(ある意味)涙ぐんだり(ほくそ笑んだり)、あるいは銭湯に行って浴槽の縁に残るお尻の跡からそれがどういった人のものであるかを三十分くらい推測したりしたところで、誰も何も言ってこないのである(なんだか悲しくなってきた)。
 兎にも角にも、僕にとって小説家というのは「天」職以外のなにものでもなく、さらにその中でも僕は自分のことを「天」才作家であると自負している。それらは全て「天」(即ち神)が僕に与えてくださったものであると考えると、いくらかの便宜を得ることができる。
「彼らがああやって超がつくほどの有名な古典をそのままコピー・アンド・ペーストして作っているような本を出版して書店の棚から僕の作品を押しのけようとしているのは、本の定価を上げるためだけに無駄にページ数を稼いで環境破壊をしているのは(そういう本に限っていくらか啓蒙的である)、残念ながら彼らには天からの授かりものが無かったからで、それに引き替え、マスターベーションで使用済のくしゃくしゃになったティッシュ・ペーパーを一枚一枚広げてそれらを重ね合わせて一冊の本にしたような僕の作品が、出すたびに飛ぶように売れて、そして評価も高いというのは、それは僕が神様から愛されているからだ」
 そう考えると、残念な(そして傲慢な)作家たちに対して、いくらかの同情を抱くこともできる(しかし彼らのことが好きになることはこの先もないだろう)。
 さらに、聖書にはこんな言葉が書かれている。
「言うまでもなく、家は全て誰かによって造られるのであり、全てのものを造ったのは神です。」
(ヘブライ 3:4)
 一つの注文住宅が造られるとき、まず(ブルジョワジーな)依頼主が(これまたブルジョワジーな)建築士に「自分がどんな家に住みたいか」を相談しに行く。それを受けた建築士がおおよそのプランをつくり、依頼主の了承を受け次第本格的な設計図面をかいて行く。その何枚もの図面たちは構造屋、設備屋、施工屋などに回され、長期的な工事をえて、ようやく(少し鼻につく)一つの注文住宅が完成されるのである。
 つまりは注文住宅のような「モノ」には必ずそれの設計者がいるということである。では、自然界に存在する全ての「もの」の設計者とは、いったい誰なのでしょう?人類史が始まってから何千年も経つというのに、まだまだ沢山の謎で満ち溢れている地球や人間を設計したのは、いったい誰なのでしょう?そう、その設計者こそが神様なのです。人間よりも遥かに優れた知能を持たれた神様なのです。神様は偉大なお方です。あなたも神様を信じましょう。信じるものは救われるのです…
 宗教勧誘の常套句のようになってしまったが(意図的に寄せてみた)、まあそういうことである。カワセミのかたちをした新幹線や、ミツバチの巣のかたちをしていてサッカーのゴール・ネット等に応用されているハニカム構造など、自然界に存在する「もの」に似せて造られた「モノ」が、時として高い評価を受けることがある。高度な知能を持っているはず人間が「モノ」を造る際にその参考にするような「もの」が、人間のいなかったうんと昔から地球上に存在しているとなると、人間よりもさらに高い知能を持った「何か」が、ずっと昔にそれを造ったと考えでもしないと、確かに辻褄が合わなそうである。
 このようにして神様の存在について論じあげていると決まって、周りから「頭が良い」と言われている人たちが頭を突っ込んで来て、「進化論」をぶんぶんぶんぶん振り回すことによって神様の存在を否定するのであるが、実のところほんとうに頭の良い人ほど、神様の存在を信じているものである。周りから「頭がいい」と言われている無神論者たちは、そのたいていが単なる受験戦争の被害者に過ぎず、ブルジョワジーで教育熱心な両親の徹底した投資の結晶でしかない「学歴」というものを、あたかも自分の血の滲むような努力で獲得したものであると錯覚し、そしてそれを伝説の剣のように常備して、いったい何の役に立つのかまったくもってわからない共通一次やセンター試験や共通テスト(本質的にはイコールで結びつけられるに違いない試験であるはずなのに、なぜその名前をこうも変える必要があるというのだろう?おそらくはそのA級戦犯である文科省の輩は、例に漏れず受験戦争の被害児たちで、その中でも何の前触れも無しに急に投下された原子爆弾をモロにうけてしまい、その放射能による後遺症が今でもまだ根強い人たちなのだろう。彼らがこうも偏屈でプライドが高く鼻持ちならなくて頭のおカタい人間に出来上がってしまったのは、いったい誰のせいなのだろうか?やはり戦後東京の焼け野原を西部開拓時代の腹いせで征服しに来たアメリカさんのせいなのだろうか?彼らがこの国の大地に手前勝手に植え付けた思想はいまだになお深く深く根を下ろしている。たとえば日本には「サブ・カルチャー」という「文化」がある(カルチャーに「文化」でいろいろとややこしいのだが)。海外からは「クール・ジャパン」という賞賛(いや皮肉に違いない)をうけているのだが、それも結局のところは文化的基盤のない日本を象徴しているに過ぎない。
 「サブ・カルチャー」ということは「カルチャー」の「サブ」であるわけで、では彼らをベンチに座らせてピッチ上を走り回っているのは誰かと申せば、それこそが「カルチャー」であり、つまるところは「宗教」なのである。戦後の米国式の一切の無駄を排除した合理的かつ効率的な教育カリキュラムによって、その「宗教」というものは、東京大空襲の爆風とともに、この国からは跡形も無く消え去ってしまったが、本来は「カルチャー」である「宗教」が大事なのであって、「サブ・カルチャー」は単にその逃げ道でしかないのである。戦後、どうも「カルチャー」だけでは息苦しいっていうんで、60年代の血気盛んな若者たちが作り上げたのが「サブ・カルチャー」なのである。それはおそらくは「カウンター・カルチャー」とも通ずる部分はあるのだと思う。例えるなら「カルチャー」は一本の木でいうところの「幹」で、その「枝」(あるいは「葉」)に当たるのが「サブ・カルチャー」であるわけだが、なぜかこの国ではその枝葉が溢れかえっていて、僕たちの生活を逆に息苦しいものにしている。本来「カルチャー」で人格形成すべきところを、多くの人はそれを「サブ・カルチャー」で代替してしまい、その結果として一枚の紙のようにペラっペラな精神基盤を持った、でもうわべだけは綺麗に取り繕うとする、単なる偽善者たちで溢れかえる、この素晴らしき日本という国が形成されているわけである。「インコ真理教」はその日本の脆弱な精神基盤に付け込み、アニメなどの「サブ・カルチャー」を駆使して信者を集め、そうして征服を企んだのであるが、その信者たちもまさかの戦争で傷を負ってしまった人たちで、やはり度肝を抜くほどの偏屈者で、コミュ障で陰キャで童貞で、それゆえに誰も考えつかないような、ただの中二病で友達の一人もいないやつが放課後ひとり自宅に帰って部屋にこもり本日三度目のマスターベーションをしているときに思いつくようものでしかない阿呆な真似をしたことによって、この国は征服を免れたのであるが、その事実をひた隠しにして、未だにアメリカさんと出来たてほやほやのカップルのようにいちゃいちゃの蜜月関係を築いているようでは、まったく助からない。いつまた「インコ真理教」のようなカルト宗教が伝説のポケモンのごとく出現して、日本を征服しようとするかわかったもんじゃないからである。こんどのそれは「童貞社会不適合者の会」では無くして、普通の社会生活を送れるような、立派な社会人としても生きていけるような、人格の形成された人たちだとしたら―。
 ゆえにこの国が「カルチャー」を持たないという事実は、本来恥ずべきことであるはずなのに、何を血迷ったかそれを大々的に取り上げてしまったのが、あの憎むべき2020東京・オリンピック・開会式なのである。その四年前のリオ・五輪の閉会式で、安倍首相がマリオに扮して土管からにゅきにょきと出現したのを見たときに、なんとなく嫌な予感はしていたのであるが、それが寸分違わずに今回のオリンピックではお見事高額当選してしまい、誰一人として観客のいない、クマさんの大好き木材をなぜか日本全国47都道府県から寄せ集めてつくった新国立競技場にて、日本人の負の側面をこれでもかというほど見せつけられ、こちらとしては大変満足であった。
 いずれにせよこの国がこのままずぶずぶと地盤沈下して行きたくないとほんとうに思っているのであれば(僕はとても個人的にものごとを考える人間なので、この先の世界の行く末など、正直どうでもいいと思っている。ましてや日本という国が蒸発しようが爆発しようが消滅しようが、そんなこと僕にとってすれば関係無しだ。逆にそっちの方が世界からすればありがたいことなのかもしれない。それもあり得ない話ではない。僕はどれだけそれが高くなろうと会計時には必ずレジ袋をもらうし、生活時に出てきたゴミはすべて「燃えるゴミ」として45Lの袋の中に詰め込むし、でも燃やそうと思えばどんなものでも燃えるわけだからそれは僕の定義からすれば「燃えるゴミ」なわけだし、特に後ろめたさを覚えていてはいない。むしろ逆に人間らしく生きることが出来ていて、清々しいくらいだ。僕は彼らのような純粋無垢な偽善者には死んでもなりたくない。もしあのへんちくりんなバッチを国民の義務として胸につけなければならないとしたら、僕はそれこそ地下鉄の車内にサリンをばらまくだろう。そんなことをするよりかは核保有国に飛んで行って発射スイッチを押してもらうよう大統領に土下座をするのかもしれない。いずれにせよコロナが収まれば僕はこんなどうしようもない国とは永遠におサラバするつもりでいるので、どうでもいいっちゃどうでもいいのだが。はたして次はどこの国に行こう?「自由・平等・友愛」の国フランスだろうか?まったく日本とは正反対である。日本は「不自由・不平等・偽善」の三単語を国のスローガンとして掲げるべきだと思う。最近の僕はフランス文学に傾倒していて、この前もスタンダールの「恋愛論」を読んだのであるが、割と共感するところがあって面白かった。陰キャでコミュ障で童貞の彼がそれでも恋愛をしたいという救いようのない分からず屋で、なぜだかしらないけど恋愛について論理的に考えて行くという、どうしようもない本ではあるのだが、割と僕の好みの部類である。)、「道徳」というなぜか近年段階的評価をするようになった謎すぎる科目とともに、「宗教」という科目を必修として子どもたちを教育するべきである。いや「道徳」は一級品の推理小説なみに謎が謎を呼ぶ科目であるわけだから、「宗教」のみで十分だろう)二次試験の得点をいつまでも覚えているような、なんだか可哀想な人たちであり、逆に神様を信仰している人たちは、教養によって磨かれた広いこころを持った人たちであり、確かに高い「学歴」の持つものが多いのは事実だが彼らはそれはただの自分の出身地程度にしか捉えていなく、ましてやセンター試験や二次試験の点数を覚えている人などその中には一人もいないことだろう。そんなことを覚えているくらいだったら電話帳の適当に開いたページの誰だかよくわからない人の電話番号を覚えているほうがよっぽど有用なことに違いない。まあ受験戦争で被災されてしまった方々も、「学歴」という名の神様を信仰しているわけなのだが、その神様はかなりの偏屈者であるため、彼に従う価値は全くないと僕はつい思ってしまう。
 また、「見えざる手」というものも、神様の存在を確かなものにしている。それはもともとはアダム・スミスが自由市場経済を論じるときに提唱したもの(のはずである。浅学な僕なので詳しいことは知らない。)であるが、神様の存在を信じてみると、僕たちの生活の様々なところに「見えざる手」が働いていることに気が付くだろう。
 例えば、今の僕は小説をかいて生計を立てているのだが、特に自分のかいている本をベスト・セラーにしようとか、そういった気持ちで小説をかいているわけでは全くない。くどいようだが僕はマスターベーションのために小説をかいているのであって、その小説がたまたま売れてしまうから、僕は職業として小説家を名乗ることが出来ているのである(ほんとうに僕は運が良いなあとつくづく思う)。どういう構成にすれば読者に「ウケる」かとか、そういった「売れる」小説のノウ・ハウを、僕は全然知らない。そもそも僕は小説がなんなのかいまいちよく分かっていない。小説と文学がどこで線引きされるのか(あるいはされないのか)も知らない。文学部に通っていたわけでもないし、そういえば高校にすらまともに行っていなかった。そんな無学な僕は兎にも角にも自分のかきたいものをかく。するとその自分のかいた「何か」が、なぜか「小説」という箱に自然と収納されて行くのである。その結果として僕は小説家という肩書きを得ているのだが、あるいはエッセイストになっていたのかもしれないし、ブロガーになっていたのかもしれない。何が言いたいのかというと、僕はつくりたいものをつくっているだけで、そのマスターベーションの末に完成された僕の作品は、僕の手元からはするすると抜け落ちていき、流れるがままに、小説に分類され、書店に並び、読者の手に取られ、そうして僕の懐が膨らんで行くわけなのだが、この中で僕のコントロールが可能なのは創作をすることだけであり、それ以外のすべては僕の手の届かないところでひっそりと行われているものなのである。マーケティングに精通している職業的作家なら、それは可能なのかもしれないが、少なくとも僕には無理な話であり、飽くまで個人的見解なのだが、本来人の手の届かないところを強制的に自分の力でコントロールしようとする、傲慢以外のなにものでもない作家を自称する人たちの作品は、ただただ唾棄すべきものでしかない。彼らは楽してお金を稼ぎたいがために、一般人に「ウケる」作品を、ピッチング・マシンから矢継ぎ早に放り投げられている球たちを寸分たがわず正確にバットの芯にジャスト・ミートさせて行くように、兎にも角にも量産する。それはある意味では職人芸なのだが、いずれにせよ彼らの作品は文化的価値の向上にはネガティブなものしか与えないわけで、僕は彼らの存在意義を説くことがまったくもって出来ないのである(どなたか出来る方がいらっしゃったらぜひともやっていただきたい)。彼らはとっとと筆を置いて然るべきだし、毎朝ゴミ収集車で街を巡回したり工事現場でドリルの快音を鳴らしたり引越作業で新たな生活を届けたりしていた方が、彼らの精神は健全なものになるはずである。話がそれてしまったが僕たち(正常な)職業的作家には手の届かない領域というものが必ず存在するものなのだが、そこには神様による「見えざる手」が働いているのだと考えると、無駄に気持ちがささくれ立たずに済むのである。余計な心配事を抱え込まずに、自分の創作活動に専念することができる。
 また、いわゆる「運」というものも、「見えざる手」に置き換えることは可能である。
「今日信号機が自分の目の前でやたらと赤になってしまうのは、神様のネガティブな『見えざる手』が今のわたしには働いているからであり、つまるところはわたしの信仰が足りないからである。わたしはもっと信仰を育まないといけない」
というように、「運」というどうしようもないものにその責任を押し付けるのではなく、それを「見えざる手」に変換させることによって、僕たちの生活はいくらか前向きになれる。「見えざる手」を自分のものにしたいと思うのなら、それは神様への信仰を深めて行くしかない。

 そして、「社会不適合者」たちに対しても、ある程度筋の通った説明をすることができる。神様は完璧な存在ではないので、ミスの少しは犯す。その結果造られたのが「社会不適合者」であると、僕はそう書いたが、もしそれが「意図的なミス」だとしたらどうだろう?
 「社会不適合者」が世界を変えるような発明や発見をすることがあるというのは有名な話だが、もしかすると神様はそれを狙って、僕たち「社会不適合者」をお造りになられたのかもしれない。もしそうだとすれば、僕たちが生きている上で周りの"economic animal"たちよりも多く抱え込んでしまう苦しみも、少しは意味のあることのようにも思えて来る。
 
 以上が今の僕に可能な神様の存在証明である。このように宗教というのはそれを無条件に信じるものでは無く、いちいち疑ってかかってみることによって、自分の中でその信条が再構築されて行き、さらなる高次の信仰を得ることができるようだ。それはある意味では哲学的な作業なのかもしれない。このことを心がけて置きさえすれば、「インコ真理教」のようなカルト宗教にも、引っかからずに済みそうなものである。


 なるほど神様というものは確かに存在するのかもしれない。しかし、それでは納得の行かないことがひとつある。なぜ彼―ワタナベ・シンジ―が日本という国家に殺されなければならなかったのか、という疑問が生じて来るのである。  
 彼は別に神様のことを心底嫌っていたりその存在を否定していたりしていたわけではなく、それよりもむしろ、彼の座右の銘が
「あなたは隣人を自分自身のように愛さなければならない。」
(マタイ:22:34)
であり、彼のアパートの一室には、付箋のびっしりと貼られた聖書が、神棚のような場所に祀られていたところなどをみると、彼は神様のことを心の底から愛していたのだろう、ということが推測出来る。
 ワタナベ・シンジは神様を愛していた。それと同時に、ワタナベ・シンジは神様も自分を愛してくれているのだろうと信じていた。しかし彼はとても不幸なかたちでこの世を去ってしまった。

 果たして、神様はワタナベ・シンジのことを愛していたのだろうか?そしてなぜ、一人の善良な市民であったはずのワタナベ・シンジが、日本という国家に殺されなければならなかったのだろう?








 それは神のみぞ知ることである。







ワタナベ・シンジに哀悼の意を込めて。
                          
                                            二〇三三年。五月七日。金曜日。曇天。










 

「愛は辛抱強く、親切です。愛は嫉妬しません。愛は自慢せず、思い上がらず、下品な振る舞いをせず、自分のことばかり考えず、いら立ちません。愛は傷つけられても根に持ちません。愛は不正を喜ばないで、真実を喜びます。愛は全てのことに耐え、全てのことを信じ、全てのことを希望し、全てのことを忍耐します。」
(コリント第一 13:4-7)








 この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称は架空であり、実在のものとは関係ありません。
 また本作品中には、今日の観点からみると差別的表現ととられかねない箇所が散見しますが、著者自身に差別的意図はなく、作品自体のもつ文学性ならびに芸術性に鑑み、原文どおりとしてください。                       
                                         (ほんとうの著者)



〈終〉