【連載小説】ある青年の手記 第Ⅲ章 (1)事件発生当時についてのとても個人的な所感
第Ⅲ章
「"別の世界"の創造」
―私たちはどこに向かおうとしているのだろう?
村上夏樹
「ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安ずることが出来るのでしょう。」
(夏目漱石 「私の個人主義」 講談社学術文庫)
その事件が発覚した当日、僕は大磯にある自宅にいた。その頃の僕はアメリカでの二年間の留学を終え、珍しく日本に自分の腰をすえていたのだった。職業的な作家となり、四作目の長編小説である『世界の始まりとソフトボイルド・リアリズム』を書き下ろしてからおよそ十年間ほど、何かと騒がしい日本という国を離れ、僕は外国の国々を転々として回っていた。日本に戻ったとしてもそれはせいぜい二日ほどで、それは海外の生活に必要な荷物を取りに帰るくらいだった。
その日の朝は雲ひとつない快晴であったことを覚えている。僕はいつも通り六時三十分に目が覚め、クローゼットから青いジーンズと無地の白い半袖のTシャツを取り出し、寝巻きからそれに着替え、トースターでブレッドを焼き、熱したフライ・パンで目玉焼きを作りソーセージを焼き、コーヒー・メーカーでコーヒーを作り、それをマグカップに注ぎ、ブレックファーストをとった。それは何の変わり映えのしない、完璧な日常的な朝であり、むしろ僕の体調は幾分か良く、鼻歌でも歌ってみたくなるような朝だった。
朝食をとった後、僕は書斎に入り、海外で買った本の山から一冊ずつ手に取り、日本に置いたままだった本棚に、ああでもないこうでもないと悩みながら(しかしそれは人生における悩みの中でも、ポジティブなものにカテゴライズされるものだった)、自分の納得のいくアレジメントになるように、悪戦苦闘していた。
僕の家にはテレビもラジオも新聞もパーソナル・コンピュータも無かったため(この世界に溢れる数多のノイズを逐一丁寧に通知してくれるスマート・フォンも、妻に促されたから一応は契約してみたものの、日常的にほとんど手に触れることは無かった。その無駄に高い定額料金にもいささか辟易してしまったので、今ではすっかり解約し、仕事上の連絡は固定電話と手紙だけと出版社には断っている)、今自分のいる国で、そして同じ県で、その悲劇的な事件が起こったということなど、僕は露ほども知らなかった。
時計の針が十一時を少し回ったころ、僕はまだ書斎に籠って本棚の整理をしていたわけだが、妻がドアを三回ノックし、出版社の人から電話があったことを教えてくれた。彼とは僕が新人賞を初めて受賞したときから二十年来の付き合いだったため、僕は特に嫌な顔をせず(彼以外の人から電話が来たときは、その多くに居留守を使っているわけだが)、書斎を出て、リビング・ルームの固定電話を耳元に当てた。
彼は珍しく興奮した様子で、こんなことを言っていた。
「日本で『過労死』が起こった。それが他とは違っていくらか複合的なものだったから、マス・メディアはそれに首ったけだ。そして君もそのニュースは注意して耳に入れておいた方がいい。なぜならその事件は決して君とは関係のないものでは無いからだ」
受話器を置いた僕の頭の中にあったのは、「?」だった。なぜなら、「過労死」は別にその時に初めて起きた訳では無いし(確かにここ十年くらいは日本では「過労死」が多発していたようだった。それは日本から遠く離れた海外でもよく耳にしていて、その度に、僕は世界の狭さを憂いてため息をついたものだった)、僕はサラリー・マンになったことなど一度もなく、彼の言う「関係のないものでは無い」がさっぱり理解出来なかったからだ。しかし彼には決して少なくない量の信頼を置いていたので(それは人間嫌い、特に日本人嫌いの僕にとっては珍しいことだった)、僕は
「へぇ、そうなんだ。世界には不幸な人もいるものだ」
と思い、リビング・ルームを後にした。
僕は書斎に戻って本棚の整理を再開しようとしたのだが、気もそぞろで、僕はベランダに出た。暖かな日差しに当たりながら、僕はセブン・スターを一本咥え、ジッポーでそれに火をつけ、その煙が自然と肺の中に広がっていくのを確かめたあと、ふぅっう、と、それを気管を通して口から吐き出した。その時のセブン・スターはあまり美味しいものだと感じることが出来ず、その感覚が未だに印象的に残っている。
その後はランチを妻と一緒に食べ(確かスパゲッティだった)、本を読んだり、飼っている猫と戯れたり、昼寝をしたり、難攻不落な本棚を攻略しようとしたり(結局それは無謀なことだと分かったわけだが)、本を読んだり、いつもの非生産的な午後のひと時を謳歌しようとしていた。しかし、その電話のことは、たとえ何をしても、何故か頭から抜け落ちることはなかったのだった。
それから何日か何週間か何ヶ月か経ち(何年とまではいかなかった)、僕は書斎にいて、海外から取り寄せているマンスリーのマガジンのページを、猫を膝の上に寝かせて、マグカップに入れたコーヒーを飲みながら(確か昼食後だった)、一枚一枚ぱらぱらと繰っていた。
その中に一つ、僕の目を引く記事があった。それがあの電話で彼の言っていた事件についての記事だったのだ。
その内容に関して言えば「働きすぎな日本人」のような、いつもの日本批判で、特に目新しさを感じたわけでは無かった("economic animal"という単語を見つけたときには、ある意味の新鮮さを覚えたが)。しかしその期間というもの、僕の頭の中ではその事件のことについての観念が、自分でつけたわけではないのにしっかりとラベリングされ棚に収納されていた。「これはよく調べる必要があるかも知れない」と、僕はようやく重い腰を上げ、自分たちの住む地域の図書館に向かった。