【連載小説】ある青年の手記 第Ⅱ章 2021年4月1日
四月一日。水曜日。大雨。
今日から二〇二一年度だ。
ぼくはぎりぎり進級できたようだ。秋学期はほぼ全滅だったけれど春学期は一応全部取れていたから助かった。
現時点の大学の発表によると二〇二一年度は基本的に対面授業になるらしい。ほんとうだろうか?どうせまたコロナが流行すればオンラインに変更するに違いない。新年度を迎えたぼくたち学生を一安心させるための単なるキレイゴトに過ぎないのだ。
そんななか東京オリンピックはほんとうに開催されてしまうのだろうか?競技場に観客を入れてしまうのだろうか?なんだかぼくたち学生はすっかりほったらかしにされているような気がする。未来の日本を支える若者を見て見ぬフリしてまでオリンピックが大事だとでもいうのだろうか?そこまでマネーゲームが面白いとでもいうのだろうか?
まあいい。そんなことよりもさっき顔を洗っている最中ぼくの頭のなかには天才的なひらめきが発生したのだ。これは神様からの啓示に違いない。
ぼくはこれを〈自分自身=正二十面体気体定理〉と名付けよう。
(1)「自分自身」というものが存在する
いきなりいくぶんか怪しいところになってしまうのだがこれは単なる仮定の一つに過ぎないから別にいいのだろう。この先の説明で詰まったらここに戻って来ればいいだけの話だ。ただの背理法である。問題無い。
万物の中でも「自分自身」というものほど得体の知れないものはない。確かにそれは自分の中に存在するのだがそれがどこにあるのかが全く分からないのである。肉体としての体の中にあるわけでもない。たとえ人体解剖をしたとしてもその中から「自分自身」というものを腎臓のようにひょっこり取り出すことはできない。でも確かにそれはあるのだ。ある気がするのだ。それが何故だかは全く分からないけど。
(2)「自分自身」は気体である
そう考えた理由は以下の二つである。
(ⅰ)「自分自身」は目に見えない
先程も述べたように「自分自身」というものは自分の中に確実に存在するのだがそれを臓器のように取り出したり目で見たりすることは出来ない。物体の状態というのは基本的に「固体」「液体」「気体」の三つに分類することができるのだが「自分自身」というものをこれら三つのうちのどれか一つに当てはめなければならないとしたら唯一目に見えないものである気体しか有り得ない(有色気体は除く)。
(ⅱ)「自分自身」は「拡散」する
物理的な意味での「拡散」とは濃度分布が一様になって行く現象のことであるが「自分自身」においての「拡散」というのは辺りに散らばるというどちらかというと言語的な意味での「拡散」である。「自分自身」が「拡散」するとはどういうことかと言うとそれこそ差別的大量殺戮を計画していたぼくだったり無差別テロ事件を起こした山上寛治のような状態つまりはこの世界には自分という人間ひとりしか存在しないと考えているキケンな状態のことでありこれ即ち「自分自身」しか見えていない状態のことである。この世界における「自分自身」というものの濃度分布が一様になって行くと考えてしまう現象ともいえるのでそこには物理的な「拡散」の意味も含まれているのかもしれない。「拡散」が行われるものの状態とは流体である「液体」「気体」の二つである。
(ⅰ)(ⅱ)より「自分自身」とは気体である。
(3)「自分自身」は正二十面体である
(1)(2)より「自分自身」というものは存在しそれは気体である。そして拡散する。拡散してしまうと他人の手には負えないキケンな状態になってしまうので「自分自身」という気体を何かで囲わなければならない。
「自分自身」を数学的な平面で完全に囲い込むとすればそれは最低でも四枚必要である。しかしながら四枚では少な過ぎる。「角(かど)が立つ」わけである。「自分自身」が「角が立」っている状態だとなにかと生きづらい。「角が立」っていないほうが望ましい。究極的にはそれは球であることが望ましいのだが平面では球を作ることはできない。そこで球に一番近い多面体は何かと考えるとそれは正二十面体になるはずである。なぜなら球に近づくためには対称性をもつ正多面体である必要がありそして面を増やす分だけそれは球に近づくわけだが一番面の数が多い正多面体とはオイラーの多面体定理より正二十面体なのである。
「自分自身」を正二十面体によって囲むとその中にある気体も一様に分布することによって自然と正二十面体のかたちになるはずである。ゆえに「自分自身」とは正二十面体の気体であると言うことができる。
(4)「自分自身」は「仮面」によって形成される正二十面体で囲われる
(1)〜(3)より「自分自身」という気体は正二十面体によって囲われるのが最も望ましい状態である。するとその形成された正二十面体の面とは一体何なのかという疑問が生じて来る。
その面は「仮面」であると考えてみる。「仮面」とはぼくたち人間が生活を営むときに自然と着脱するものである。お母さんに対しての自分と友達に対しての自分とは意識しているわけでは無いのに明らかに異なる。その二つとでは「仮面」が異なるのである。ぼくが小学生のときに授業中先生のことを「お母さん」と呼んでしまったのがよくあったがそれはおそらくはぼくがお母さんに対する「仮面」を着けたままで先生に話しかけてしまったからである。
そしてその「仮面」は人に対してのみ変化するものでは無い。大便をしているときの自分と夜布団に入って眠ろうとしているときの自分は明らかに異なる。大便をしているときは自分の中にある全てのものを体外へ放出しようと意気込んでいるのだがまさか夜布団に入って眠ろうとしているときに同じようなことを考えているわけにはいかない。夜布団の中で目をつぶってそのまま意識を失うためにはある程度リラックスをする必要がありそのときの自分は大便をしているときの自分とは全くもって異なるのである。
さらにその「仮面」はオルタナティブなものでなければならない。ぼくが小学生のときに友だちと話していたのと同じようにコンビニのお客さんに対して接するわけにはいかない。小学生の友だちと話していたときの自分の「仮面」は今ではもうすでに使えないものになってしまっていてすっかり過去のものになってしまっているので正二十面体からは自然と外れて行ってしまったのである。そして今ではそこに別の「仮面」がある。つまりは新陳代謝が行われているのである。
付け加えてみると二十枚の「仮面」によって形成されるのは正二十面体であるわけだからそれら二十枚の「仮面」の大きさは全て同じでなければならない。「仮面」の大きさはその「仮面」をしているときの行為が自分の人生においてどのくらいの意味を持つものなのかを表している。大便をしているときの「仮面」と大学の講義を受けているときの「仮面」とコンビニでアルバイトをしているときの「仮面」と夜ご飯を食べているときの「仮面」と夜布団に入っているときの「仮面」の大きさが同じであるということはその「仮面」を着けているときにしている行為が人生においては全て同じ重要性を持つということである。つまりは大便と勉強とアルバイトと食事と睡眠とはこの与えられた長い人生の中では全て等価な行為なのである。そう考えてみると確かになるほどそうだよなと納得することができる。排泄は人間という動物が生きていく上では必要不可欠な行為であるしそれは食事も睡眠も同様である。アルバイトはお金を稼ぐためにしなければならないことだし勉強も自分の将来を考える上では重要なことである。そしてそれらに価値の序列をつけることは不可能である。その中でどれか一つでも欠けてしまうと今のぼくは生きて行くことが出来ない。大学での勉強が今は一番大事なことのようにも思えなくもないが排泄も食事も睡眠もアルバイトもそれと同じくらい肝要事なのである。
(1)〜(4)より「自分自身」という気体は仮面で形成された正二十面体によって囲われておりゆえに「自分自身」は正二十面体のかたちをもった気体である。
以上が〈自分自身=正二十面体気体定理〉の「説明」であるわけだが本来ならばここでこの定理を反論の一つも通さない完璧なものにするための「証明」を行わなければならない。しかしながらこの定理においては論理的な「証明」は困難を極める。なぜなら「自分自身」という気体を有する人間という動物は全ての行為に整合性をとりながら生きているわけでは無いからだ。言ってしまえばこれからのぼくの人生全てがこの定理の「証明」ということになる。これをフェルマーの最終定理のようにまとめあげればいくらか格好がつきそうである。
以上のことをまとめてみよう。
〈自分自身=正二十面体気体定理〉
(1)「自分自身」というものが存在する
(2)「自分自身」は気体である
(3)「自分自身」は正二十面体である
(4)「自分自身」は「仮面」によって形成される正二十面体で囲われる
この定理に関して私は真に驚くべき証明を見つけたがこの余白はそれを書くには狭すぎる。
うん。美しい。
この定理をもってすればぼくはもう「自分自身」というものに頭を悩まされることは無くなるはずだ。なぜなら「自分自身」というものは無色透明な気体であり目で見えたり手で掴んだりすることが出来ないものであると諦観の念を覚えられるからである。無駄に自分の中を覗いてみようともしないはずだ。ゆえにこれからは日記を書くことで内観する必要も無いのである。ぼくの外に存在する美しい風景をあるがままの目で見ることが出来る。この与えられた長い人生を心の底から楽しむことが出来る。もしそこでつまずくことがあれば自分の二十枚の「仮面」を一枚一枚丁寧に点検すればいいだけの話だ。自分の「仮面」というのは割と正確に把握することが出来る。
兎にも角にもぼくの「自分探し」はこれにて終結したわけである。
しかしながらぼくには二十枚の「仮面」が果たしてあるというのだろうか。ここで数えてみることにしよう。
(1)洗顔をするときの自分
(2)朝食をとるときの自分
(3)大便をするときの自分
(4)小便をするときの自分
(5)身支度を整えるときの自分
(6)講義を受けるときの自分
(7)昼食をとるときの自分
(8)昼寝をするときの自分
(9)掃除をするときの自分 ]
(10)コンビニでアルバイトをするときの自分
(11)読書をするときの自分
(12)映画を観るときの自分
(13)音楽を聴くときの自分
(14)日記を書くときの自分
(15)夕食をとるときの自分
(16)入浴をするときの自分
(17)ストレッチをするときの自分
(18)寝る支度をするときの自分
(19)眠るときの自分
一枚足りない。
うーん。何とか絞り出してみたつもりなんだけどな。
受ける講義によって「仮面」は異なるのかもしれないけどそれだとキリが無いからやめておいた。それは読書も映画鑑賞も音楽鑑賞も同様である。
何か細分化可能なものはないかな。
コンビニのアルバイトはどうだろう?
コンビニでアルバイトをしているときの自分か。あまり明確には思い出せない。灰色の靄(もや)がかかっているようだ。うーん。
コンビニコンビニコンビニコンビニコンビニコンビニコンビニコンビニ
割石さん
?
何で割石さんが出て来るのだろう?
割石さん
割石さんはぼくより一個上の大学二年生。彼女はぼくと同じで地方から大学進学のためにこの辺りに引っ越して来ていてコンビニのアルバイトは大学一年生から始めたらしい。
彼女はぼくの尊敬する先輩だ。
彼女は僕のことをフルネームで呼んでくれる。
「ワタナベシンジくん」
「ワタナベシンジくん」
「ワタナベシンジくん」
それはなぜなのだろう?
それが彼女の処世術なのだろうか?
フルネームで呼んであげることでその人に親しみをもつための?
いつも彼女といるときは二人きりだ。彼女が他の人のことを何て呼んでいるのかはよく分からない。同じようにフルネームで呼んでいるのだろうか?シフトが変わるときにその人のことをなんて呼んでいたっけ?まるで覚えてない。
割石さんはぼくのことが好きなのだろうか?
まさか。そんなことはあるまい。ぼくのことを好きになってくれる女性なんてこの地球上にいるはずがない。
ではぼくはどうなのだろう?
ぼくは彼女のことが好きなのだろうか?
考えてみれば彼女と話しているときのぼくはコンビニで他の業務をしているときのぼくとは少し違うような気がする。
ここにぼくの「仮面」の最後の一枚があった。
(20)割石萌花さんと話すときの自分
彼女と話すのはとても楽しい。心が温かくなる。彼女のことを考えているだけで胸の奥が温かいもので満ち満ちて来る。
ぽかぽかする。
これが「好き」ってことなのだろうか?
割石萌花さん。大学では英米文学を勉強しているらしい。だからいつも話は盛り上がる。村上夏樹から始まりカーヴァーカポーティフィッツジェラルドサリンジャーチャンドラーなどなど。映画もよく観ていてこの前は新海誠と濱口竜介の文学性について話していたっけ。彼女の鋭い批評眼には思わず舌を巻いてしまう。それに負けじとぼくもついつい熱くなってしまいこの前はからあげクンを真っ黒黒のこげごげにしてしまった。その分のお金は彼女が出してくれた。
割石萌花さん。少し茶色に染まった黒髪でそれを肩のあたりにまで伸ばしている。彼女の髪はお花畑の匂いがしそうだ。流石にくんくんと嗅ぐわけにはいかない。たまに茶色い縁の眼鏡をかけて来るのが最高にキュートだ。笑顔も素敵だ。さんさんと輝く太陽みたいに彼女は笑う。
割石萌花さん。
ぼくは彼女のことが好きなのだろうか?
ぼくにそんな資格があるのだろうか?
でも彼女のことを考えているだけでぼくはとても幸せな気持ちになれる。胸がぽかぽかして来る。
ぼくは彼女のことが好きだ。割石さんのことが好きだ。
それは彼女とセックスがしたいとかそういうものでは無い。断じて無い。プラトニックラブみたいに立派なものでは無いと思うんだけれどでもぼくは割石さんの近くにいたい。ずっと近くにいたい。彼女と手をつないでみたい。彼女をぎゅっと抱きしめてみたい。いつまでも彼女と抱きしめ合ってみたい。彼女の温かい体温を自分の肌で感じてみたい。彼女の唇と自分の唇とを重ね合わせてみたい。
こんなぼくは可笑しいのだろうか?気持ち悪いのだろうか?ただの変態なのだろうか?
割石さんはぼくのことをどう思っているのだろう?ただのバイト仲間とでしか僕のことを見ていないのだろうか?
そうだ。そうに決まってる。そして彼氏さんがいるに違いない。あんな魅力的な女性に周りの男たちが黙ってるはずがないだろう。ぼくなんかに割石さんの彼氏は務まらない。そうに決まってる。
でもぼくは割石さんのことが好きだ。どうしようもなく好きだ。
告白
いやいやいやいや。ぼくに出来るはずがない。今までたったの一度もして来なかったわけだから。ぼくなんかに彼女をつくる資格なんてものは無いのだ。選ばれた人間のみに彼女をつくることは許されているのであってもちろんぼくはその選ばれた人間ではない。ゆえにぼくは死ぬまで彼女をつくることはないのだろう。童貞を守り続けてこの与えられた一生を全うすることになるのだ。それがぼくの人生だ。
でもそれでもぼくは割石さんのことが好きだ。ぼくひとりではこの気持ちをどうすることもできない。つらい。苦しい。息ができなくなりそう。なぜか涙が出て来た。どうしてだろう?どうして割石さんのことを思うとこんなにもつらく悲しくなってしまうのだろう?これが「恋」ってものなのかな。「恋」っていうのはこんなに辛いものなのか。それなのになんで人は「恋」をしてしまうのだろう?なんで人は誰かを愛さずにはいられないのだろう?
でもこのつらさも苦しさもなんだか幸せのようなものにも思えてくる。割石さんのことを思うと確かにつらいのだけれどなんだかこころが温かくなって来る。なぜなんだろう?このつらさの先にほんとうの幸せというものがあるからなのだろうか?この苦しさを乗り越えた人のみに幸せというものはおとずれるのだろうか?どうすればぼくはこのつらさを乗り越えることが出来るのだろう?
ぼくは割石さんに告白するしかない。
それ以外にこの苦しさを乗り越えられるすべをぼくは知らない。
ぼくは割石さんに愛を伝えるしかないのだ。
それでたとえフラれたとしても構うものか。たしかにフラれてしまえばぼくは残念に感じてしまうしきっと落ち込んでしまうししばらくは立ち直れないのかもしれない。枕に自分の顔をうずめてずっと泣いてしまうのかもしれない。
でもぼくは割石さんに告白をすることで今よりも前に進むことが出来る。一歩前に進むことが出来る。新しい足音を踏み鳴らすことが出来る。それは間違いのないことだろう。割石さんに告白をすればそれでたとえフラれてしまったとしてもぼくはこの苦しさという壁の「向こう側の世界」に進むことが出来る。「ショーシャンクの空に」のように防壁の「向こう側の世界」へと穴を掘って突き抜けることが出来るのだ。それはほぼ確実なことであろう。
だからぼくは割石さんに告白をするしかない。
割石さん。ぼくはあなたのことが好きです。大好きです。ぼくはこの気持ちをどうすることもできません。こんなぼくは気持ち悪いですか?嫌いですか?
割石さんはぼくのことをどう思っていますか?
そうだ。彼女がぼくのことをいったいどう思っているのか。それは彼女に実際にきいてみない限りは分からないことだ。
「ぼくのことをどう思っていますか?」
こう彼女に聞けばいいのか?
いやいやいや。それはちょっと変だ。それで「私はあなたのことが好きよ」何て言ってくれるはずが無い。「ただのバイト仲間だと思ってる」と言われたらぼくはすっかり撃沈してしまう。立ち直れないかもしれない。
しかしやはりぼくは彼女に告白をするしかない。
それ以外にはどうしようもない。
彼女に愛を伝えるんだ。それが一番大切なことなんだ。彼女に愛を伝えられずに一生離れ離れになってしまうなんてそんな悲しいことは嫌だ。絶対に嫌だ。彼女に愛を伝えよう。
割石さん。ぼくはあなたのことが好きです。もしよければぼくと付き合ってください。
それでOKをもらえることが出来ればぼくの人生の中でこんなに嬉しいことはない。天に昇って行ってしまいそうだ。
しかしぼくが割石さんに告白をしてそれでOKをもらうことの出来る確率とはいったいどのくらいのものなのだろう?
いやそれは計算不可能だ。このぼくをもってしたところでまったくのお手上げである。
割石さんがぼくを好いてくれているのかどうかなんていったい誰に分かるというのだろう?
他人がほんとうに考えていることなんて分かるはずが無いのだ。自分がほんとうに考えていることすら完全には把握することができないのだから。もしかするとぼくはほんとうは彼女のことを好きではないのかもしれない。ただ孤独で惨めな自分を慰めるための道具として彼女を利用したいだけなのかもしれない。それも大いにあり得ることだ。
そもそもの「好き」っていったい何なんだろう。みんな自分の胸の中のよくわからないモヤモヤに名前をつけてスッキリしたいのか何なのかよく分からないけど自分の都合のいいようにその言葉を馬鹿みたいに使っているけどそのほんとうの意味を知っていて使っているのかな?もしそれがほんとうは放送禁止用語レベルの卑猥な意味の言葉だったとしたらどうするのだろう?恥ずかしくならないのかな。
あとさっきから「ほんとう」「ほんとう」って書いているけれど「ほんとう」って何なんだ?「ほんとう」があるってことは「にせ」があるってこと?じゃあ今この日記を書いている自分は「ほんとう」ではなく「にせ」の自分であるという可能性もあるってこと?〈自分自身=正二十面体気体定理〉によれば今この日記を書いているのは「日記を書くときの自分」という「仮面」であって「仮面」ということは「仮の姿」でありつまりは「真の姿」というのが別にあってそれが「自分自身」という気体であるわけだけれどもその「仮面」が「ほんとう」の自分であるとは言えないのだろうか?もし「仮面」が「ほんとう」の自分であると言えないのだとしたら「割石さんと話すときの自分」は「にせ」の自分でありゆえに「割石さんを好きな自分」というのも「にせ」の自分であり「ほんとう」の自分は割石さんのことなんてどうでもいいと思っているのかもしれない。「ほんとう」の自分というのは気体であって目に見えないわけだけど……………………
うわぁもうしっちゃかめっちゃかだ!!!!まったくわけがわからん!!!!
兎にも角にもぼくはこのどうしようもない状態をどうにかするために割石さんに告白をするしかない。それ以外には仕様がない。
明日ちょうど割石さんとシフトが被る。終わる時間も同じだ。いつもはばらばらで帰ってしまうけど明日は一緒に帰ろう。「一緒に帰りませんか?」と誘うのだ。それくらいのことはこんなぼくにも出来るだろう。その資格くらいはあるはずだ。
そして告白をする。
頑張れ!自分!彼女に愛を伝えるんだ!
たぶんこの世界で一番価値があってそして唯一意味のあることは誰かを愛することだ。それはおそらくは間違いない。それ以外のことは全くもって価値のないことだ。
「全くもって」は言い過ぎか。でもどこの大学を出ようがどこの会社に入ろうがどのくらい稼ごうがそんなのものは心底どうでもいいことのはずで大事なのは誰かを愛することだ。
自分でこんなことを書いていて気持ち悪くなりそうだが兎に角ぼくは明日割石さんに告白をする。告白をしなければこれから先金輪際映画を観ない。小説も読まない。それは約束しなければならない。
勇気を出そう。彼女に愛を伝えるのだ。
ぼくはたった今聖書のある一節を想起したからそれを書いてこの日記を締めることにしよう。
この日記には数多くのフレーズを書いて来たがおそらくはこれがぼくの座右の銘になるはずである。
「あなたは隣人を自分自身のように愛さなければならない。」
(マタイ:22:39)