【連載小説】ある青年の手記 第Ⅱ章 2021年1月31日 


一月三十一日。土曜日。晴れ時々曇り。

 最近のぼくは机の上の積読本の山には目もくれずひたすらに聖書を読んでいる。聖書を読んでいるとなんだか自分のこころが綺麗な水で洗われているような感覚を覚える。まるで自分が本来あるべきすがたへと還ることが出来ているようだ。やはりうんと小さいときからおばあちゃんに聖書の読み聞かせをしてもらっていたし幼稚園もキリスト系のものだったしぼくはほんとうは根っからのクリスチャンだったのだ。
 ぼくはいろいろな本を読んだり映画を観たりして自分という一人の人間が一体何者なのかを模索していたのだけれどその答えは拍子抜けしてしまうほど簡単なものだった。

 ぼくはクリスチャンなのだ。

 たったのそれだけ。

 ここまで来るのに時間はかかってしまったけれどようやくそのことに気がつけて良かった。


「あなたたちはこう命じられたのを知っています。『姦淫をしてはならない』。しかし私は言います。女性を見続けて情欲抱く人は皆すでに心の中で姦淫をしたのです。」
(マタイ:5:27-28)

「性的不道徳から逃げ去りなさい!ほかの罪はどれも人が自分の体の外で犯すものですが性的に不道徳な行為をする人は自分の体に対して罪を犯しているのです。」
(コリント第一 6:18)

姦淫:既婚者が配偶者ではない人と意図的に性関係を持つこと
性的不道徳:あらゆる正しくない性行為を指す。姦淫売春「結婚していない人同士の性関係」同性愛獣姦などが含まれる。


 聖書を読んでいると「彼女いない歴=年齢」のぼくでも別に構わないのだと思えるから不思議である。ぼくが童貞なのは結婚をしていないからだと言い訳ができる。クリスチャンのぼくにとってセックスとは結婚をしてからするものなのだ。ぼくはそのときまでセックスを宝箱のように楽しみに取って置くことができる。このことはぼくにたくさんの安心を与えてくれる。
 女性を見続けて情欲を抱いてはならない。つまりこれからは女性のグラビア写真やAVを観て興奮してマスターベーションをしてはいけないということになる。だが禁欲生活を続けてもうすぐ一年になろうとしているぼくにとってはあまり関係の無いことだ。ぼくは初めてのセックスで何年間分の溜まりに溜まった精液を彼女のなかに好きなだけ出させてもらえればいいのである。それはさぞかし気持ちのいいことだろう。
 しかしながら果たしてぼくは結婚をすることが出来るのだろうか。そもそもの彼女をつくることが出来るのだろうか。そんな資格がぼくにはあるのだろうか。もしかするとぼくは一生童貞なのかもしれない。童貞を守り続けたまま終える人生というのもそれはそれで良い人生なのかもしれないけど。でもなんか嫌だなあ。