【連載小説】ある青年の手記 第Ⅲ章 (3)今更の"economic animal"
まず、彼を殺した「ブラック企業」について考えてみる。「ブラック企業」。辞書で引いてみると、「労働条件や就業環境が劣悪で、従業員に過重な負担を強いる企業や法人。長時間労働や過剰なノルマの常体化、セクハラやパワハラの放置、法令に抵触する営利行為の強要といった反社会的な実態がある。ブラック会社。」(デジタル大辞泉)とある。何を基準としてそれを「劣悪」とするのだろう。「労働基準法」だろうか。僕という人間は日本とっては異邦人といっても過言ではなく、日本の社会については全くの無知なのである。このことも事件が僕をドライブした要因としてあるのだろう。
僕のとても個人的な考えを入れさせてもらうとすれば、「ブラック企業」とは、止まることを知らない資本主義がこの国の大地に産み落としてしまった(あるいは排泄した)、資本主義のネガティブな要素がこれでもかと詰め込まれている、まさにパンドラの箱である。しかしその箱の中には「希望」の「き」の文字も入っていない。僕は資本主義というものが心の底から嫌いだ。そのわけは後の文章に譲るが、とりあえずは資本主義というものについて、僕のとても個人的な考えを書いて行こう(詳しく正確に知りたい人は専門書などを当たればいい)。
資本主義という経済システムが、もう人間の手には負えないほどの凶暴なモンスターと化してしまっているということは、既に多くの人が知っているはずだ。その怪物は、環境を破壊し、新種のウイルスを発掘し、貧富の差を広げ、時として戦争を起こす。その怪物を手懐け、いくらか風通しをよくするためには、自らをも怪物になる必要がある。つまりは、人間から"economic animal"へと変身するしかない。
"economic animal"は決して人間などでは無く、全くの知能を有していないため他の動物と同類である(ハイエナを想像してもらうといくらか分かりやすくなるのかもしれない)。彼らはお金という「肉」を求め、両眼をギラつかせ、一瞬の光が目に入れば、実際にそれが何であったとしても、それを「肉」と判断し、向こう見ずに飛びついて行く。そして彼らが何も考えず(そもそもが系統立ててものごとを考えることができないわけだが)「肉」に飛びついていったせいで、周りの動物や自然がどれほどの被害を被ろうとも、彼らはそれがまるで当然であるかのような態度を示し、更なる「肉」を追い求めていく。
彼らの好きな言葉は主に三つあり、それは「努力」・「成功」・「自己責任」である。この「三種の神器」をそれぞれの頂点とする正三角形をつくり、その三辺の中線を引くことによって浮かび上がって来る交点こそが「お金」なのである。彼らはものごとを考えることが出来ないと先程は書いたが、なぜなら彼らの意識の奥深くにはこの正三角形が鎮座しており、それが全身の各部位に信号を与えることによって、彼らは「ビジネス」をしているからである(彼らはやたらめったら自分たちのする仕事のことを「ビジネス」と呼びたがる。おそらくは彼らは「ビジネス」という言葉を覚えたてでそれを使いたくて仕様が無いのだろう)。
多くの人間は"economic animal"になることに対して初めは抵抗を覚えるが(中には生まれもった素質をもつものもいる。彼らにとってすればその変身はいとも容易い。そして飽くまでも特殊な事例だが、両親が生粋の"それ"である場合、生まれてくる子も同様に純粋な非人間であるというケースが、特に日本で決して少なくない数報告されている)、一度なってしまえばそれは楽になる場合がほとんどである。なぜならそこには「個性」というものが一切合切介入してこないからである。彼らはただただ自分の潜在的な正三角形に従って生きていれば良いのだ。
「努力」・「成功」・「自己責任」、「努力」・「成功」・「自己責任」、「努力」・「成功」・「自己責任」、「努力」…。
三角形の頂点たちは順序を守りながら規則的に「鼓動」をして、全身に信号を送り続ける。そしてその運動によって「お金」という重心を浮かばせ続けなければならない。その重心が沈み込んでしまうことは、彼らにとって「死」を意味する。
さらに"economic animal"たちにとって都合がいいのは、今の経済システムは彼らのために用意されたフィールドと言っても過言では無いということである。それは突き詰めて行けば「ニワトリが先か卵が先か」の話になってくるが、兎にも角にも、"economic animal"たちはそこを縦横無尽に駆け回ることが出来る。彼らに潰される小さな命を知らずして。