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あなたがスポーツをやってきたことは「武器」ではなく 「レンズ」として使ってくれないか?

一般社会のスタートは4月である場合が多い。しかし、サッカーのシーズンは1月-12月で1サイクルになっている。だから僕はこの1月で社会人10年目になった。

高校サッカー選手権が終わって、いつもこの季節になると、これまでいたスポーツ界から離れ、新しい世界へ踏み出していくアスリートたちのことを思う。


「アスリートであること(あったこと)を武器にしろ」 

アスリートは「アスリートであること(あったこと)を武器にしろ」と繰り返し言われる。僕もそうだった。僕も言ったことがあるかもしれない。これは、アスリートに限ったことではないのかもしれない。

ただ「武器」というのはいささか物騒である。しかし、それを言葉通り受け取って その武器を振りかざす人がいる。例えば「俺はこういうチームにいたんだ」とか「俺はこういうが選手と友達なんだ」とか、そうやって他人を従わせようとする ーというとやや大袈裟かもしれないが、とにかくそれに類する方法を行使している人がいる。

あるいはもう少し消極的な武器、慣れ親しんだスポーツの世界から外で出ていくとき、スポーツしかしてこなかった自分が傷つかないための自己防衛のための武器、そのような目的で携行している人もいる。

いずれにせよ、僕はこれが「うまいやりかた」だとは思えない。せっかくの素晴らしい体験を武器に換えてしまうなんて、寺の鐘を接収して弾丸を作っていた戦争末期のような貧しさである。

『人類学者のレンズ』と 『ガザで何百人ものアスリートが殺されていることー』

青山ブックセンターで、ふと平積みされている『人類学者のレンズ』という本を見つけた。著者の松村圭一郎さんは、他にも『働くことの人類学』などの多数の作品があり、僕がフォローしている人物だ。

同じ日、はてブで『ガザで何百人ものアスリートが殺されていることが不問に付されるなか、アムステルダムで「暴徒化」したのは誰だったのか(英文法解説つき)』というポストを見た。

僕は、戦争と平和について人よりいくばくか興味を持っている。イスラエルの問題についてもそうである。ただそれは本当に興味というレイヤーの心情である。

しかし、記事を読んで僕は「なるほど、アスリートも殺されているのか」という新鮮な衝撃を受けた。そしてふとこう思った。イスラエルの問題も、僕にとって"語りしろ"のようなものがあるかもしれないと。

『人類学者のレンズ』は西日本新聞で2020年4月〜2022年12月まで計33回に渡り連載された同名コラムが書籍になっている。コロナ禍だった当時のトピックが取り上げられている。情報として真新しいものはないが、松村氏がここで持ち出した「人類学者のレンズ」という手法に強く惹かれるところがあった。

彼はそのレンズを通して、コロナウイルスと医療の問題をはじめ、政治、経済、宗教、あまつさえ スポーツについても鋭く、そして興味深く語っていた。

もし彼と同じように、僕には僕のレンズというものがあるとすれば、件の戦争をはじめ、自分とは結びつきの薄いと思っていた他の世界についても語ることができるかもしれない。そう思って この本を手に取った。

武器ではなく〈レンズ〉

スポーツをやってきたことは「武器」ではなく 「レンズ」として使えないだろうか。レンズとはつまり、スポーツに携わってきた僕たちが どのように物事を見るのかということである。

身の回りで起きていることをぼんやりと眺めているだけでは、スポーツばかりしてきた僕たちにはほとんど "語りしろ" というものがない。一方で、例えば「紛争地域にもアスリートがいる」というようなことを見ることさえできれば、その限りではない。

「何を語るか」に先立って「何を見るか」という行為がある。そのとき、画角や焦点、色味、解像というものを規定するのが〈レンズ〉である。

同じ問題、同じ現象を見ていても、その〈レンズ〉を通して結んだ像は、他の世界で生きてきた誰かのそれと違っている。

それを見ること語ることは、誰かにとって関心があるかもしれない。必要になるかもしれない。僕にとって人類学者の〈レンズ〉がそうであるように、人類学者にとっても僕の〈レンズ〉がそうであればと願う。

〈レンズ〉とは肩書きではない

〈レンズ〉とは肩書きではない。確かに、彼が「人類学者の」という肩書きを使って活動をすることに マーケティング的な効果があるのは否定しない。しかし、マーケティングの方針と人生の方針は区別する必要がある。

〈レンズ〉とは、あくまで自分から世界の側を覗くときに通過するものである。世界から自分の側を覗かれたときに権威めいたものを付与する機構でない。それは肩書きあって、その行使は武器的である。この点ははっきりとさせておきたい。

何度も言う通り、武器は必要ない。スポーツに携わってきたことは、自分と他の世界とを隔絶するものではなく媒介するものとして、武器ではなく〈レンズ〉として使ってくれないか。

それは社会にとって有益であるというようなことだけではなく、僕たち自身にとっても、興味があったけど畑違いで避けてきたあらゆる物事に対して図々しくも関わっていく口実になるかもしれない。

「スポーツばかりやってきた」「サッカーしかしてこなかった」そんな過去を肯定しながらも、新しい世界で、新しい好奇心に従って生きていく術となるかもしれない。

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井筒 陸也
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。