見出し画像

利他的に生きることについて(少し遅めの新年の抱負にかえて)

アマだろうがプロだろうが、サッカー選手の目標は だいたい「日本代表」「W杯優勝」「CL優勝」になる。別にいいけど、バリエーションが無さすぎる。

原因は、彼らの行動原理が(1)金を稼ぎたい(2)上手くなりたい(3)有名になりたい この3つに収斂されるからだ。「家族に満足な暮らしをさせたい」とか 「成長し続ける感覚を大事にしている」とか 「ビッグクラブに行けば親が喜ぶ」とか ディティールは多少あってもだ。

これが達成されそうなのが、先に挙げた目標になる。

否定はしない。でも、少なくともそれが興味深いことなのかと言われると、まったく興味深くない。「金を稼ぎたい」「上手くなりたい」「有名になりたい」と言われても、そんなもん僕だってそうだ。

あとは、それを「どれくらい」という話題。住む家は 十平米より百平米のほうがいいし、百平米より千平米のほうがいい。観客は百人より千人のほうがいいし、間違いなく一万人のほうがいい。そんなもん僕だってそうだ。だから、そういう「できるだけ多く」みたいなところに熱を込められても困る。

僕の聞き方が悪かった。

「君の利己的な欲はわかった。君が言う通り、豪邸で家族に裕福な暮らしをさせ、飽くなきフットボールの追求をし、大観衆の前でプレーをするようになったとしよう。それで、君は何をするんだ?」

・・・

年末、僕が最も尊敬する男、成山一郎と麻布十番で食事させてもらった。昇格POを終えたばかりの、大学サッカー部の同期の呉屋くんも一緒だった。呉屋はここ5年くらい「成さんと飲みに行きたいけど、まだ早い気がする」とか言ってビビっていた。だから、セッティングしてあげた。

呉屋がほとんど開口一番といった感じで「成さんは、大学生だった僕たちに対して、どんなことを思って指導していたんですか?」と聞いた。

それを受けて、成さんが答える。2020シーズン新体制発表会にも、その話があった。

自分の監督としての転機は、2011年3月11日の東日本大震災でした。大学サッカー部で監督をしていた自分は、逃げ帰るように東京遠征を切り上げました。同世代の人たちが被災地で命をかけて復興に臨む中で、サッカーの指導者というものに誇りが持てなくなりました。

https://criacao.co.jp/soccerclub/information/post-2381/

そして、自分が世のため人のためになるには、サッカーを使って、世のため人のためになる若者を鍛えることだと決めて、サッカーの指導者をやっていると続く。

僕は、この話を知っていた。そして大学での4年間、Jリーグを離れて新宿での3年間、彼のもとでプレーした僕は、これがただのエピソードではなく強烈な実行がともなっていることも知っていた。

知ってはいたけど、年末に聞いたときは隣に呉屋がいたこともあって、この若者とはつまり僕たちのことであるという、至極当然のことに改めて気づいた。

そして、恥ずかしい気持ちになった。成さんが思いを託したのに、それをちっとも理解せず、ずいぶんと自分本位で生きているなと思ったから。

僕も世のため人のためになりたい。年末年始は、そのことばかり考えていた。

・・・

世のため人のためというのを、ここでは利他と呼びたいと思う。しかし、利他という言葉は、あまりにも高尚で、現実的ではない気がする。だから、足場を固める意味で、利他的に生きるということについてのいくつかの肯定的な要素を並べることにした。

利他は利己に先立つ(べきである)

結局のところ、人生に利他的な行動についての方針がないと、利己的な行動「金と力と名」を「できるだけ多く」のゲームから抜け出すことができないのではないか?

買いたいものを買って、余った金で利他的な行為をするのではなく、利他的な行為に納得できるだけのリソース使って、余りで生活する。どれくらいの高級車に乗ればいいかを検討するより、どれくらいの有意義な活動をすればいいかを検討するほうが生き方として極めて正しい気がする。

つまり、利他の側から利己を押すということだ。利他は利己に先立つべきである。

利他はすでに存在する

利他というとあまりにも突拍子がないことに思えるが、実際はそんなことはない。

水道を修理しているだれかが「スパナを取ってくれないか」と依頼するとき、その同僚が「そのかわりになにをくれる?」などと応答することはない。たとえその職場がエクソン・モービルやバーガー・キング、ゴールドマン・サックスであったとしても、である。

デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』

資本主義の権化たちを引き合いに出して、そんなところで働いている彼らですら対価を求めない行動をしているとグレーバーは言っている。

これは利他性というよりコミュニズムについて言及している部分だが、ここでは直接的な自己の利益につながらない行動と、我々が古くからの友達であることの証左として引いている。

我々が利己的だからではなく、我々がそもそも利他的な生物であるからこそ、その利他をどこに向けることが有効なのか考えるべきだ。

利他的に生きなければ老害になる

世界中で 様々な問題が起きている。ウクライナも、ガザも、能登の地震だってそうだ。でも、現地に出向くことはおろか、僕たちはどこに・いくら寄付をするのか基準すら持ち合わせていない。

そうしている間に、テレビから消え、タイムラインから消え、自分の中からも消える。そしてまた取って代わられた話題に振り回される。時にそれは凄惨な災害であり、時にそれは芸能人の不倫であり、時にそれは同僚に対する不満であり、そうして限られた人生のエネルギーをあてもなく霧散させていく。

霧散させるだけならまだマシ。ムカついた感情で凶器を生成して、人の心を傷つけたり、インターネットを荒らしたりする老害になる。あるいは「諦めることこそ賢さ」といった態度で新しい世代に絶望だけをリレーしていく老害になる。嫌だ。

ヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』で、こんなセリフが出てきた。

「影って重なると濃くなるんでしょうか?そんなこともわからないまま死んでいくんだなぁ」

『PERFECT DAYS』

僕たちは、そんなこともわからずに死んでいく。だから、何でもかんでも知ったフリをして喚き散らすのではなく、知るべきことを絞らなければいけない。何をするのかを決めなくてはいけない。

さて、改めて聞こう。

君は、何をするんだ?

・・・

僕は?僕は何をするんだ?

現状、漠然と利他というテーマだけ決まっているだけの、ただの口だけ野郎だ。

僕は何をするのか。

僕が感じている課題は、課題ではない

まず、僕が向き合う社会の課題とは何なのか。ずっと考えていたけど、僕が直接的に感じているような課題は、解決されると「ベター」とは思うが「マスト」というレベルではないなと。

苦しむことも、悩むこともあるけど、少し時間がたつと、大したことなかったなと思う。申し訳ないくらい豊かな環境だ。なので、はっきり言って僕が感じているような課題は、社会の課題ではない。

だから、必ずしも開発途上国に行く必要はなくとも、間違いなく自分なんかよりもっと困っている人に対して行動をすべきである。

僕が僕でなければ、僕をどう使うだろう?

自分は何をしたいのか?というような情熱に従うのは素晴らしい。しかし、僕はもうすぐ30歳になる。自己分析もやり尽くした。原体験も枯渇した。天命も啓示も降りてこない。くるとしても、待てん。

だから、自分は何をしたいのか?という、ティーンエイジャーのモラトリアムとはサヨナラしなくてはいけない。

『僕らがクビになり取締役会が新しいCEOを連れて来たら、そいつは何をするだろう?』。ゴードンは即座に答えた。『メモリ事業から撤退するだろうな』。私は信じられない面もちで彼を見て、こう言った。『じゃあ、僕らが一度会社を辞め、戻ってきたつもりになってそれをやればいいんじゃないか』

マイケル・マローン『インテル 世界で最も重要な会社の産業史』

僕が一度僕を辞め、そして戻ってきたとすれば、どう判断するだろう。もう少しわかりやすく言えば、僕が僕でなければ、僕をどう使うだろう?ということだ。

最初に挙げた『〈効果的な利他主義〉宣言! 慈善活動への科学的アプローチ』でも「あなたの代わりに雇われるはずだった人よりも大きな価値を生み出す必要がある」と書いてある。よく考えてみれば、僕がその席に座らなくても、僕と同等、もしくは僕より優秀な人が来るのであれば、社会に対してもたらすことのできる付加価値はゼロになる。

僕の意思に関係なく、僕の持っている有効そうな性質や能力については、だいたい三つくらいある。

まずはスポーツ。これはもう僕の人生においては動かしようがない。Jリーガーにもなったし、サッカークラブで働いてもいる。おかげでネットワークがある。使わな損損。そして、スポーツの中でも、特にメディアパワーに注目している。スポーツにはたくさんの価値があるが、とりわけメディアパワーのすごさは外れ値だと思っている。

次にコミュニケーション。僕が5年間をかけてサッカークラブでやってきたことは、広報室を立ち上げ、クリエイティブ室を立ち上げだことだ。そこではテキストを使って、デザインを使って、ファンだけではなくパブリックとコミュニケーションすることだった。僕が選手のときリーダーとしてしていたことは、組織づくり云々ではなく、アジテーションだった。それはつまりコミュニケーションだった。この note だってそうだ。僕はコミュニケーションにかなりの時間を割いてきたと言える。

最後に、日本人であること。例えば、世界の全人口の所得において、年収が 52,000$以上あれば上位1%、28,000$ 以上でも上位5%らしい。そう考えると、所得が世界上位1%以上ある、またはその人たちに気軽にアクセスできる日本人はマジで特別。藤原和博の、1/100 × 1/100 × 1/100で、3つのキャリアを掛け算すれば、1/1,000,000の希少性の高い人になれるという有名なフレームワークで言えば、出自をキャリアとするのはやや誤謬があるにせよ、グローバルであれば日本人というだけですでに 1/100を一つ持っている。

この辺りを勘案して、そろそろ僕が何をするのかが決められそうな気がしている。

リソースを持て余している日本人に、価値のあるアクションをしてもらうこと。社会の課題を可視化する、それを解決できる人間をエンパワーメントする、それは正しいコミュニケーションによって。そしてそれらをスポーツのメディアパワーを使ってスケールさせる。

全然、具体的ではない。でも、こんな感じではなかろうか。

僕は僕のままでいい

こうして決めたことは、=起業ということでもないので、先行者の有無も、マーケットのサイズも干渉しない。決めたことを実現する条件として、僕が働いている会社は十分ではないが必要とは言えるはずなので、今の環境を大切にしつつ、少しずつ行動していきたい。

同じ仕事をしていても、その先のイメージがないとただ食べるために稼ぐ野郎になる。結果を、例えば 金や影響力を手にしてから意義深いことをやるというのは、僕が思うに不可能だ。過程が大事なのは、結果が出なかったときの言い訳ではなく、過程を含めた結果がアウトプットであり、アウトカムになるから。

こんなことを新年の抱負とさせていただければと思います。おあとがよろしいようで。


いいなと思ったら応援しよう!

井筒 陸也
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。