「808」第2話
その時、オオネくんがそっと近寄ってきた。
さっき配られた「学年だより」を、手に握りしめている。そして、僕の前に差し出す。プリントの端には、
「808-11」
1がひどく傾いた、癖のある字で書かれていた。
「797⋯泣くな、か。ありがとう」
僕がそう言うと、彼は寂しそうな笑みを浮かべた。
次の朝、彼はまた転校したと担任が僕らに告げた。
彼はいなくなったけれど、その日から僕は変わった。
親には、補聴器を無くしたこと、でも自分から同級生に喧嘩をふっかけるようなことをしたので、大事にはしないでほしいことを話した。
大事にしないと言っても、高価な物だし、オーダーメイドなので、すぐに替わりの物を用意できるわけでもない。親は最初難色を示していたが、根負けして、次からは気をつけるようにと念押しした上で、新しい物を買ってくれた。
新しい補聴器が来るまでの間、相変わらず同級生の声はほとんど聞きとれなかったが、僕は生まれ変わったつもりで暮らした。自分から挨拶もしたし、人を馬鹿にしたような態度は一切とらないようにした。仲間はずれや意地悪をされても、つっかかっていくこともしなかった。
腐ってばかりの僕に、優しくしてくれた彼の存在が嬉しかったのだ。
数日後、新しい物ができる前に、なくなった補聴器が机の上に乗っていた。
秋が深まる頃には、僕はクラスに溶け込んでいた。自分から話しかけてみれば、心底嫌な奴はいなかった。補聴器を隠した同級生が、親を連れて謝りに来た。点数を馬鹿にした奴じゃなかった。
元はといえば自分が悪かったのはわかっているけれど、心機一転したかった。中学受験して、大学まで一貫の私立校に入った。ボランティア部は六年間続け、大学では小学校の教員免許を取得した。
そして今、僕は、公立小学校の支援学級で働いている。正直、支援学級を志願する新任教員は珍しい。なぜ、とやんわり聞かれたこともある。
誰にも言わないけれど、今の僕があるのは、間違いなく彼のおかげだ。クラスに溶け込めないような困りごとを抱えた子供のために、少しでも何かしたいと思っていた。
「マサくん、筆算は位をそろえるんだよ」
学習障害を抱える男子に、僕は声をかける。彼も、一見したらごく普通の小学生であり、休み時間や放課後にはクラスの子と遊んでいる。体育や音楽など、通常級で受けている授業もあるし、会話もゲームも難なくできるが、漢字や計算が極端に不得手なのだ。
「先生、位ってなんだっけ」
「上は3つ数字があるよね、百の位と十の位と一の位。下は、十の位と一の位しかない。位を縦にそろえないと、正しい答えが出ないんだよ」
授業中だけでは理解できないことも、噛んで含めるように説明すれば、マサくんも少しずつできるようになっていた。
そんなある日の朝だった。いわゆる特殊詐欺の受け子が捕まったというニュースを何気なく見ながら身支度を整えていた僕は、犯人の名前を見て手が止まった。
無職 大根 来夢 容疑者(26)
ほとんど面影はないが、確かに彼だった。根元の黒い部分がすっかり伸びた、だらしない金髪になっている。
と、ともに一つの疑問が湧き上がる。マサくんの自信なさげな顔と、大根くんの顔が、交互に脳裏に浮かぶ。
「あ…」
彼は、三桁ひく二桁の計算ができただろうか?
僕は本棚から、六年生の国語の教科書を引き出した。
初心を忘れないように、あの日オオネくんがくれた「学年だより」を、大切に挟んであるのだ。
808-101
やはり、位は揃っていなかった。もしかして。僕は震える手で、書き加えた。
自分は、本当に、自分のことしか考えていなかった。
自分が主人公で、彼は脇役とでも勘違いしていなかったか。彼は、僕を慰めてくれたんじゃない。切実な何かを訴えてきていたのかもしれない。
情けなくて恥ずかしくて、涙が止まらなかった。
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