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「骨の消滅」 第五章 神殿への鎮魂歌

早朝、夜が明ける少し前に小野さんはシジミ漁にでていった。そして翔子さんは朝食の用意をして、用があるからとのことで、俊太のことくれぐれもよろしくと言い残し、急いで出かけていった。

ぼくらはゆっくり朝食を堪能した。翔子さんは料理も得意だった(点は二物を与えたもうたか)。出雲いずくもさんの中で翔子さんの株がぐんぐん上がっていることが手に取るように分かった。

そして、いよいよ今日の目玉、俊太の出雲観光プランに沿って出発だ。ただ、そのプランは普通の観光プランでなかったことはいうまでもない。

まず、行先は須我神社すがじんじゃだった。

「なぜ、須我神社を最初に訪ねようと思ったんだい?」

普通、出雲へ観光に行くなら、まず出雲大社へ向かうだろう。そうでなくても、松江の八重垣神社、熊野大社、神魂かもす神社など、人気のあるところはいくらでもあるだろうに。そう、ぼくが疑問を呈すると、俊太はわかってないなぁというような顔で「須我神社は日本で初めてできた神社だからだよ」と答える。

そんな馬鹿な!?

「日本で初めてできた神社が須我神社なんて聞いたこともない」というと、出雲さんが今度は代わりに説明してくれた。

須我神社

『古事記』によれば、スサノオはヤマタノオロチを退治した後、妻の稲田比売命いなだひめとともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まった。

これが日本初の宮殿ということで「日本初之宮」と呼ばれ、この時にスサノオが詠んだ歌が日本初の和歌ということで、「和歌発祥の地」と称している。

「ただ延喜式(当時の官社に指定されていた神社一覧)には、須我神社は掲載されていないことから、由緒はともかく、最古の神社ではないはずだが・・」

そう、出雲さんがつぶやくと、「見えるものがすべてではないよ」と子供らしくないことを俊太が小さな声でいうのをぼくは聞き逃さなかった。

「俊太は真っ暗な深い闇の中で、神話という小さな希望に必死でしがみついているのよ。はたからみたら、冗談のようにしか見えない小さな希望でもね」

翔子さんは震災後の俊太の心の内をそう語っていた。目の前で両親を亡くした俊太のことを思うと、きっとぼくらが想像できないくらい厳しい経験を乗り越えてきたのだろう。まだほんのこどもなのに。

今は俊太の提案に乗るのが懸命に見えた。俊太の心を大切にしたい。

それを知ってか、関係ないのか、出雲さんはすぐに俊太の提案に乗った。

「それじゃあ、俊太コースでレッツラゴー♪」

真面目なのか、不真面目なのか、よくわからない人だ、このひとは・・・。



スサノオの神話はヤマタノオロチ退治だけが大きく取り上げられているけれど、見落とされている功績があると思う。それが俊太が須我神社すがじんじゃを出雲観光(観光といえるのだろうか?)のスタートに選んだ理由だった。

スサノオ神話のもっとも代表的なものといえば、ヤマタノオロチ退治であろうことは誰もが認めるところだ。

高天原を追放されたスサノオは母親の故郷・出雲へ赴く。そこで川から流れてきた箸をたよりに上っていくと、泣いている老夫婦がいる。聞けば、毎年やってくるヤマタノオロチに娘たちを次々と食べられ、最後の末娘・稲田比売いなだひめまで食べられようとしていた。スサノオはヤマタノオロチを退治する代わりに、その娘さんをくださいとお願いする。そして、ヤマタノオロチはスサノオに退治され、スサノオは稲田比売と結婚し、めでたしめでたし。

この神話は神楽かぐらの世界で最も愛されており、石見地方でもクライマックスの演目に「ヤマタノオロチ退治」が使われるほどだ。ただ、俊太はそれ以上に、見過ごされているスサノオの功績があるという。

それを聞いていた出雲いずくもさんは半ば感心したようにこう言った。

「それが須我神社の二つの伝説なんだろ」

須我神社の由緒によれば、「古事記」にて、スサノオはヤマタノオロチを退治し、稲田比売と結婚し、二人の神殿を建てた。そして、この国で初めてスサノオが和歌を詠んだという。

八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を

これが和歌の基本「五・七・五・七・七」を形成しているという。和歌に詳しいわけではないが、確かに和歌の創始者ならもっと崇め奉られてもいいのに。しかし、高天原で乱暴狼藉の限りを尽くしたスサノオの、この教養はどこからきているのだろう。

さらに、忘れてはならないスサノオの最大の貢献は、この国で初めて神殿を造ったことだという。

「出雲国風土記」の飯石郡須佐郷の由来にこう述べられている。

スサノオがおっしゃったことには「この国は小さな国なれど、いい国だ。よって、自分の名は、木や石につけない」といって己の魂を鎮めたという。よって、この場所を須佐郷という

このことから、スサノオ以前には神様の名前は木や石に付けていたということになる。これが本当なら、神殿すなわち、神社の始まりはスサノオといっていいだろう。

ウィキペディアにも、神社の始まりはスサノオだと記載される日が近いかもしれない



須我神社に向かう道中、出雲いずくもさんは神話に迫る3つの方法について語ってくれた。それによれば、出雲神話の真実を知るには「神話」、「遺跡」、そして「神社」を調べないといけないという。

出雲神話関連でいえば、「神話」は「古事記」、「出雲国風土記」に書かれている物語を丁寧に読み込み、その奥にあるものを掬い上げないといけないという。

そして「遺跡」は考古学上の発見を指す。「神庭荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」など、これらの発見が神話の物語とどう結びついているかを考えるのが大切なのだという。

最後に「神社」は現在、信仰の対象となっているが、そもそも原始神道はどういうものだったのか、それを考えていくことで出雲神話の真実に近づくことができるという。

だから、ぼくら(俊太のアイデアだが)の目指す「須我神社」は「神社」そのものの成り立ちに迫るもので、非常に意義深いのだそうだ。そう出雲さんがいうと俊太は嬉しそうにこういった。

「ただ、不思議なのは神殿は造ったけれど、その中に信仰の対象となる造形物を作らなかったことなんだよ」

いわれてみたら、そうかもしれない。今まで当たり前のことのように思っていて、考えもしなかったけれど、神社建築は本殿内には何も入れないというのが基本だ。これは神様というものは目に見えないものだからだといわれている。

しかし、古今東西の宗教を考えるとこの異様さは目を引く。日本も後に影響を受ける仏教も、教祖であるシッダルータ(仏陀)は、偶像崇拝を固く禁じていた。しかし、仏教が広まるにつれ、かたちあるものをどうしても手元に置きたくなったので、仏教が中国に入る段階で仏像彫像が始まり、その後日本にもやってきた。

これまでのように、日本人は偶像崇拝を拒むのかと思えば、喜んで仏教建築を取り入れた。ご存じのように今では日本中のお寺に仏像は作られ、個人の仏壇にも仏像は飾られている(あの一神教のキリスト教でさえ、十字架をシンボルにし、イエス・キリストを身代わりとして彫像している)。

なぜ、神道は例外的に偶像崇拝を拒んでいるのであろう。これには何か深いわけがありそうだ。

そうこうするうちに目的地の須我神社に到着した。須我神社は松江木次線をちょっとはいったところに建てられている。神社までの石段は急勾配でお年寄りにはちょっと辛そうだ。

「それじゃあ、参拝しましょうか」とぼくがいうと、俊太はここを通過することに意味があるんだから、いかなくてもいいよという。出雲さんもその意見に賛成のようだ。やはり、この二人は何かがおかしい。ここまで来たからには参拝しないとおかしいでしょうと、ぼくは強固に主張し、半ば無理やり車を止めてもらった。

俊太と出雲さんは待っているというから(何故に!?)、ぼくひとりで参拝することになった。

神社の参拝の正式なやり方はわからないが、鳥居をくぐるときに軽く一礼した。そして参道を歩いていくと手水舎てみずやがあるので、そにあるひしゃくで手と口をすすだ。この手水によって心身の穢れけがれを取り去るのだという。

急な石段を登り切ると、目の前にすぐ拝殿が見えた。たしか、神社の参拝は「二拝二拍手一拝」だったのを覚えていたので、賽銭を払い、型通りの作法で参拝した。

神社の周りは、さすが「鎮守の森」というべきで、美しい木々で囲まれていた。なんだか心がすがすがしい気持ちになる。これも神社参拝の素晴らしさのひとつだろう。どうして、出雲さんと俊太は参拝しないのか?

そのときである。

アヨ、アヨ


竹林の中から奇妙な声が聞こえたように思えた。聞き間違えかと思って、耳を澄ましたのだけど、あたりは静寂に包まれたままだった。しばらく何か声がしないかと思い、じっと待っていたけれど、だんだんとその静寂に耐えきれなくなってきた。ぼくは少し速足で石段を下りた。二人にこの不思議な体験を語ろうと思ったけれど、車内ではまたも二人が神話談議で盛り上がっており、結局いいそびれてしまった。

このときのことをなぜ二人に伝えなかったのかと、今ではとても後悔している。



「参拝は終わったかい?」と出雲いずくもさんが聞いたけど、ぼくはなぜ二人が参拝しないのかわからなかったし、それに対する抗議の意味も込めてだんまりを決め込んだ。ただ、二人にはぼくの気持ちは伝わらなかったようだ。

「それじゃ次にいってみようか」と出雲さん。ぼくがいない間に、次に行く場所が決まったみたいだ。

その前に、もうすぐお昼前だから腹ごしらえしてからいこうということになった。昨晩と今朝も小野家で御馳走になったのだから、俊太の好きなものを食べようと出雲さんが提案したのだ。

俊太はなぜか恥ずかしそうにもじもじしていた。

「俊太、好きなものないのかい?」とぼくが聞くと、俊太は意外にもケンタッキーフライドチキンに行きたいといいだした。そんなファーストフードでなくても、遠慮せずに好きなものを食べてもいいのにと思ったけど、ほんとうにケンタッキーにいきたいのだという。

小野家は(小野さんも翔子さんも料理が得意だから)いつも手料理が出てくるので、なかなか外食の機会がないらしい。そして、翔子さんが食事に気を使っているため、ファストフードを極力嫌うのだという。だから、驚いたことにケンタッキーに一度も行ったことがないのだという。

それではということで、ぼくらは松江のケンタッキーフライドチキンに向かった。俊太が大いに喜んだことはいうまでもない。


ケンタッキーに向かう途中、俊太は「この気持ち悪い音楽は聴き飽きた」といい、ビーチボーイズの「スマイル」をほかのCDに換えてくれといってきた。なんてやつだ、ビーチボーイズの「スマイル」だぞ。内心、ぼくはそうおもったが、出雲さんもすぐに俊太の意見に賛同した。この二人は神話意外、興味がないのか?

ジャズのCDも俊太には退屈だろうから、しょうがないのでラジオにキーを合わせた。ちょうどFM山影やまかげがはいった。

「あれ、聴いたことのある音楽だぞ。何だっけ、この曲?」

そうだ、この曲はプリファブスプラウトだ。FMでプリファブスプラウトが流れるとは珍しい(島根ではよく流れているのだろうか)。

曲の名前は「グリーフ・ビルド・ザ・タージマハル」

アルバム「クリムゾン/レッド」の中の印象的な曲。確かインドのタージマハルについて歌った曲だ。

そういうと、出雲さんが「ああ、インドの世界遺産だろ。世界史の教科書にも載ってたよ」という。俊太は流石にまだよく知らないみたいだ。ぼくが分かりやすく説明してあげた。

タージ・マハルはインド北部のアーグラにある、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの妃ムムターズ・マハルの墓廟。 総大理石の白亜の廟は、インド・イスラム文化の代表的な建築物。1983年、インドの世界遺産に登録された。

建築物の説明だけ聞くと凄そうだが、この5代皇帝はタージマハルを建設した上に、自分の墓標も建てる計画を立てた。タージマハル後方に流れるヤムナー川対岸に黒い大理石で同じ形の黒タージマハルを建設しようとしたのだ。

タージマハル建設だけでも莫大な費用を要し、国力も傾いた上に、さらに同様のタージマハルを建てるなど言語道断だということで息子に強固に反対された。そして、最後には皇帝は幽閉されて、失意の内に亡くなった。

ぼくはこの話を世界史の授業で聞いたとき、なんて愚かな皇帝なのだろうかと思ったものだ。ところが、プリファブスプラウトがこの曲を歌うと、そこに別の新たな意味を見出せるようになるから不思議だ。

タージマハルは皇帝の妻を失った深い悲しみ、深い苦悩が築いたのだ

そう歌われるとタージマハルが愚かな建築物ではなく、深い哀しみの象徴に思えてくる。これこそが音楽のすばらしさの一つだろう。しかし、二人の神話マニアには一向に響かなかったようだが。


島根大学付近の学園通りに出ると、十字路の交差点のかどにケンタッキーはあった。車をドライブスルーに入れると、俊太は注文看板を珍しそうにじっくり眺めた。出雲さんは「一番高いやつにしなよ。圭吾が払ってくれるから」と俊太に薦めた。

「え、いいの?」

そういわれて、駄目だとはいえないのが哀しいところだ。出雲さんは払う気もないらしい。基本的にケチなのだ、このひとは。まぁ、これだけ俊太が喜んでくれるのだから、よしとしよう。

ぼくらはアツアツのチキンを頬張りながら、最後の目的地「田和山遺跡」に向かった。



いくら出雲神話の旅に出るとはいえ、このようなコースを選ぶ人がいるだろうか。

黄泉比良坂→神庭荒神谷遺跡→大黒山登山→須我神社(素通り)→田和山遺跡

観光会社がどんなに神話ミステリーツアーを組んだところで、なかなか思いつかないコースではなかろうか。ぼくひとりではとても思いつかなかっただろう(出雲大社や稲佐の浜さへ入っていないのだから)。その点だけでいえば、とても珍しい体験をさせてもらったといえなくもない。

われわれは最終目的地である田和山遺跡に向かった。田和山遺跡は松江市中心部から3キロほど南に行ったところの丘陵部にあった。

田和山遺跡は弥生時代、青銅器と同時代の遺跡だ。

1997年から2000年にかけて松江市立病院の建設に伴い発掘調査が行われた。その結果、謎の三重の巨大環濠が見つかった。弥生時代の環濠集落は、通常、環濠内部に住居跡などが配置されるが、田和山遺跡の狭小な環濠内部は建物跡が2棟見つかっただけだった。そのため、なぜこれだけ膨大な労働力を投下して環濠を掘削したのか、環濠内部には何があったのかが謎とされた。

環濠内からは、つぶて石や石鏃が出土しており、弥生時代の戦争を物語る山城ではないかという説、祭祀の拠点であったという説、環濠内部に銅鐸などの青銅祭器が保管してあったのではといった想像も提唱された。

われわれは西側駐車場に車を止め、田和山遺跡頂上を目指した。ちなみに駐車場を下りたところには丁寧な案内板が設置してあった。

田和山遺跡は丘陵であって、山ではないので出雲いずくもさんでも楽に登れた(それでも文句はいっていたが)。それでも斜面は急勾配であり、木造りの階段がありがたかった。

急勾配の階段を上っていくと、すぐに頂上が見えてくる。わざわざこの丘陵を三重の環濠を作ってまで守りたかったものは何なのだろう〈それも重機のない、手掘りの時代にだ〉。

それを考えると、この遺跡の異常性は際立っている。明らかに頂上に当時、最も大切なものを置いていたに違いない。

この時代に最も大切なものとは何だったのだろう。

「この頂上部分の柱跡と似ているのって何だと思う?」

ついに頭頂部にたどり着くと、すぐに出雲いずくもさんが質問してきた。頂上には9本の柱跡とそのすぐ東側に6本の柱穴があった。

9本の柱と聞いて、以前どこかで見た新聞記事を思い出した。

「確か出雲大社の巨大神殿跡が発掘されたときに柱穴が9本あるって記事が出ていたような・・」

そう、ぼくがいうと、出雲さんは「金輪御造営差図かなわごぞうえいさしず」のことだねと説明してくれた。

「金輪御造営差図」は出雲大社に伝わっている、かって巨大神殿であった出雲大社の設計図のようなものだ。出雲大社の本殿はかって高さ16丈(48m)あったと伝えられていた。

ただ、これまでその伝説は実在が疑わしいともいわれていた。そんな大昔にそのような高層建築を建てる技術はなかっただろうというわけだ。

しかし、平成12年(~13年)、出雲大社の境内から巨大な柱が発見されたことによって、その存在が証明された。3本1組となったスギの大木が3箇所で発見されたのだ。それぞれの木は直径が1.4mほどで、3本括るとなんと直径約3mにも及んだ(今は島根県立古代出雲歴史博物館にその柱は展示されていて、誰でも見ることができる)。

この田和山遺跡は、出雲大社にも通ずる、神社の原始の姿だったのでは、という説もあるのだという。

でも、まてよ、ぼくは疑問がわいてきた。

かりにこの田和山遺跡が神社の原始の姿だったとして、神社のように見えないものを、これほど想像を絶する労力を傾けて掘った三重環濠で囲むなんてことがあるのだろうか。

そこには、あの時代の人々が心のよりどころにした、最も大切なものがなくてはならないような気がした。



「そうなんだよ。スサノオが初めに建てたといわれる神殿にはきっと何かがあったと思うんだ」

その声に振り返ると、俊太が頂上部に設置されてる休憩用の長椅子に腰かけて、チキンをむさぼっている最中だった。俊太は初めて食べるフライドチキンを気に入り、バケットごと食べかけのチキンをもってきてしまったようだ。きっと翔子さんがいたら行儀が悪いと叱っていることだろう。

「しかし、フライドチキンの骨は邪魔だねぇ。ぼくは骨なしチキンのほうが好きだな」

そう俊太がいうのを見て、ぼくはカーネル・サンダースに成り代わって叱りたい気分になった。骨があるからうまみが出るんだよ(本当はどうか知らないが)、と。

そのとき、である。

俊太が立ち上がろうとしたその瞬間、足元の小石にけつまずいてバケットが転がってしまった。幸い、チキンは全部食べていたので、中に入っていたチキンの骨だけが散乱してしまった。その様子を見て、「まだこどもだな」とぼくがゴミを拾い集め始めたその時、出雲いずくもさんが叫んだ。

「ちょっとまて!」

俊太とぼくが振り向くと、出雲さんが興奮気味にこういった。

骨かもしれない・・・

「骨にきまってるでしょ、当たり前じゃないですか」とぼくがいうと、「いやいや、そういうことじゃない」と、出雲さんはすぐ切れ気味に否定した。

この田和山遺跡の頂上には骨が祀られていたのかもしれないということだよ

昨日、ぼくらは東出雲にある黄泉比良坂よもつひらさかを訪れたときに、「黄泉の国」神話が、民俗学の分野で再葬を表現したものではないかといわれている、という話をした。しかし、再葬の痕跡は東日本以北で見つかっているだけで、出雲地方で再葬が行われた可能性は低いということだった。

ただ、再葬が昭和初期まで沖縄や奄美地方で行われていた風習だったことが不思議だったという。日本の南端と東日本だけに伝わる葬儀方法なんてものがあるのであろうかということだ。そして、再葬が行われなかった場所で青銅器が見つかっている。これはどういうことなのだろうかとずっと考えていたという。

「つまりは、この出雲でも再葬が実は行われていて、骨を神殿に祀っていたということ?」

そう、俊太が聞いてきた。出雲さんは、俊太の推理である「大国主命が大規模船団を率いて、各地で交易をおこなっていた」というのは、現実のものだったかもしれないと説明してくれた。

この出雲の地で再葬が行われていたとすれば、船団を率いて何か月もこの地を離れていても、葬儀を1~2年くらい遅らすことができる。そうすれば、交易が出来なくなる晩秋に船団が帰ってくるのを待って、改めて葬儀を行えばいい。これなら高天原の女王制を選ばなくても、船団の交易を発展させることができたはずだというのだ。ひょっとすると、出雲で大量に見つかっている青銅器群も再葬に関係するものなのかもしれないという。

「俊太、お手柄だよ」と出雲さんが褒めると、俊太はいかにもうれしそうにこういった。

出雲神話の真実を見つけるのはこのぼくだ。真実はいつも一つ!

やれやれ、また調子に乗ってるな。

でも、ちょっとまてよ。ふと、ぼくの中に疑問が浮かんだ。

そうなると、この田和山遺跡に祀られていたのが仮に骨だとしたら、その骨はどこへいってしまったのだろう?

現地調査はしっかり行われたはずだし、現にそんな骨が土中から見つかったという話はなかった。骨はどこへ消えてしまったのだ?

そのとき、ぼくは急に、今は亡き新潟のおばあちゃんの言葉を思い出した。

骨というものは50~100年たったら消えてなくなっちゃうんだよ

あれはおじいちゃんの葬儀のときのこと。火葬場で御骨を拾い集めているときに、おばあちゃんは「この骨もお墓に入れてしまえば、50年くらいで消えてしまうんだよ」といっていた。

でも大切なのは、目に見えなくなっても、いつまでも覚えていることのほうなんだよ」と諭すように教えてくれた。

そうか、そういうことなのかもしれない。神殿に骨を安置したのはいいが、この日本の湿気の多い気候だ、50~100年たってその骨自体が自然に消滅してしまったんだ。ゆっくりと、時間をかけて。

その考えを出雲さんにすぐ伝えた。

すると、「圭吾、お前も少しは役に立ったな」と出雲さんがぼくを初めてほめてくれた。ほんとうに、後にも先にもこの時だけだったが・・・。

「そう考えると、哀しいね」

ぽつりと俊太がつぶやいた。大切なものが目の前で失われていく。それを一番身にしみてわかっているのは、この俊太なのだ。

「ひょっとして、この田和山遺跡は深い哀しみの象徴なのかもしれないな」

出雲さんは、そうつぶやいた。

ぼくらは田和山遺跡の頂上で、2000年前の人々の哀しみに思いをはせた。日本の神社建築が今に伝わるのは、無意識にその深い哀しみを大切にしてきたためなのかもしれない。哀しみにかたちはいらない。だから、神社の本殿にはなにも入れようとしなかったのではなかろうか。そう考えると、なんだか大切なものが受け継がれているような、そんな誇らしい気持ちになれた。

ああ、ぼくがパディマクアルーンなら、その深い哀しみを歌に出来ただろうに。それはきっと神殿への鎮魂歌レクイエムになったことだろう・・・。



田和山遺跡を下りて、駐車場で翔子さんがやってくるのをぼくらはしばらく待っていた。松江で用事があったため、午後3時にこの場所で落ち合うことになっていたが、ちょっと遅れるという。

「ごめんなさい、式場の打ち合わせが長引いちゃって」

といって、しばらくして翔子さんがやってきた。出雲いずくもさんは、俊太に「どういうことだ!?」という合図を送っている。実は、翔子さんは来月結婚が控えていて、今日は松江に朝から式場の打ち合わせに来ていたのだという。

「だましやがったな、俊太!!」

昨晩、俊太が出雲さんに耳打ちしていたのは、どうやら翔子さんとの仲を取り持つ約束をしていたらしい。そんなこどもの約束を本気にするなんて、出雲さんのほうがどうかしている。大人げないにもほどがある。

俊太が翔子さんの後ろに隠れて泣いている。俊太ははじめて(歳は相当違うが)神話を語り合える同士を見つけて嬉しかったのだ。それがなぜわからないのか、ぼくがそう小声で出雲さんに伝えると、さすがに出雲さんも大人げないと思ったのだろう。帰り際、俊太に声をかけた。

「俊太、いつも真実は一つだ。でも、真実を二人で追ってもいいよな」

さっきまで泣いていた俊太が、パッと笑顔になる。

「今度、鳥取に来たら、「青山剛昌ふるさと館」に連れてってやるよ」と出雲さんがいうと、俊太は泣きながら笑って、「うん!」と答えた。

「青山剛昌ふるさと館」は初めてできた彼女といくんじゃなかったのか(笑)

当たり前ながら、ぼくはそのことについて黙っていた。時に沈黙が必要な時もある。

ぼくらの車が田和山遺跡近くの山陰線に上がって見えなくなるまで、ずっと俊太は手を振っていた。いつまでも、いつまでも。



「ほんと、ガキの御守りは疲れたぜ」

出雲さんは、車の中でそううそぶいた。右耳はピクリと動いていたけれど。

「でも、大きな成果があったよ。今年と来年で、このことを論文に仕上げれば、出世は間違いないだろう。そうなったら、女の子にもモテモテだな、きっとね」

出雲さんのわくわくはとまらない。出雲さんはシュリーマンのように神話が実在のものであったと証明したいといっていた。その願いが今にも叶うと思っているようだった。

ただ、現実にはその論文は発表されなかった。そして、出世することもなく、女の子にモテモテになることもなかった。

出雲さんは鳥取に帰る道中、間違いなく幸せの真っただ中にいたはずだ。ただ、そのさきには「まさか」があった。

もしも、そのとき、ぼくが東の空を振り返っていたなら、漆黒の禍々しい黒雲が迫って来ていたのが見えたはずだ。

アヨ、アヨ


3日後、出雲さんは突然、失踪した。



* この物語はフィクションであり、須我神社に「アヨ、アヨ」は住み着いていません。安心してお出かけください。

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