見出し画像

新しい世界

 今までの自分は、何か1つの目標に対してコツコツと努力をすること、いわゆる大企業と呼ばれるところに就職し定年までまじめに働くということ、というようないわゆる日本の古き良き(?)考え方の人間だった。というよりその考え方しか知らなかったという表現のほうが正しいのかもしれない。そんな考え方をぶっ壊してくれたのがただ「面白そう」という理由で入った長岡ゼミだった。でも、「面白そう」だけでこのゼミに入ることを決断できた時点で、その古き良き考え方から脱しつつあったのかもしれないと今振り返ってみて思う。

 今までの考え方と今身につけようとしている考え方の違い、それは「明確な、約束された未来が見えているか見えていないか」ということである。この2択にうちどちらがよいものかと聞かれたら、今までの自分であれば間違いなく前者を選ぶ。本音を言えば今でもそう思う部分もある。しかし、今自分たちが追っているものは後者である。ゼミ中によく出てきた言葉に関連付けて言うと、「脱予定調和」や「直観と好奇心」に関連するだろうか。明確な未来が見えているということは言い換えれば、自分が進むであろう世界は1つということである。自分は計画をたてることや目標をもつということがそのように言えるとも気づいた時、とてももったいないことだと感じた(もちろんそれが100%間違っているとも思わないが)。この世界には、無数の自分たちの知らない選択肢がある。それを簡単に狭めてしまうことは本当にもったいない。特に自分たちのような若い世代には。それよりも、もっと自分の知っている世界を増やすことのほうが、明らかに大切なことである。そして、たくさんの選択肢を持っている中で自分が本当に進みたい道を選ぶ、これが有意義な人生にするためのことだと思う。

 この考え方をもつ上で、「変化を受け入れる姿勢」をもてるかどうかが2つの意味で自分は必要だと思う。1つは、先が見えない状況にの中でどんなことが起きても対応するためである。もちろん、先が見えないことに対してのこわさは多かれ少なかれ誰でもあるだろうし、簡単になくせるものではないと思う。しかし、目まぐるしく変わる状況の中で、変化に対して柔軟に考えれるだけでも、そのこわさは緩和できるものだと思う。もう1つの意味は、数ある選択肢の中から選択した後でも、その選択を変えれるかどうかということである。たくさんの世界を知ったうえで1度選択したことであれば、それが絶対に正しいと思うだろうし簡単には変えれないないだろう。もし簡単に変えてしまえば、それは過去の自分の選択を否定することになるのだから。しかし、うまくいかなかったとき、はじめの選択に固執せずにその小さなプライドを捨てることができるか。そして、別の選択を決断できるか。その姿勢こそが、自分の世界を広げていくうえで重要なことである。

 春学期は具体的なケースについて学習したというより、考え方や手段について学習した。言ってしまえばこれからの活動に向けての準備段階である。これからそれをいかに実行していけるかが重要なことである。ここで薄っぺらい決意表明をするのは好きじゃないし意味もない。ただ行動あるのみだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?