それも自分だから
ちゃんと振り返らなければいけないと思いつつ、なかなかその勇気がでなかった。やっとその勇気がが出たというわけでもないが、今だからこそ言えることもあるんじゃないか、そう思って振り返ってみることにした。
今から思えば去年の11月頃からなんとなく自分の中の歯車が狂いはじめていたのかもしれない。自分の中ではめちゃくちゃ頑張ってるつもりでも、なんだかやりきれないような、ただ時間が流れていっているだけのような、不完全燃焼な気分だった。年末年始実家に帰ったときは、何のやる気も出ず本当に何もしなかった。その時は一年の疲れが出たんだなくらいにしか思っていなかったが、無意識のうちにSOSが出ていたのだと思う。
東京に戻りすぐに始まった大学の試験期間を無事に終え、これから春休み。たくさん時間があるし色んなこと頑張ろう!そう意気込んでいた。実際にずっと興味があった企業の長期インターンを受けてみたり、長岡先生がずっと言っていたように「課題ではなく作品として、ゼミの課題をやろう」と思ってたくさん考えて時間をかけてみたり、東京石川県学生会としてこれからやりたかったことに向けて実際に動き出していたり、bb projectもインターンメンバーのことを更に深く知れてもっと頑張ろう!って思えるようになったり・・・とにかく行動すること自体はできていたと思う。その一方で、いつからか身体に異変を感じるようにもなっていた。身体は疲れているはずなのに、夜12時くらいに布団についても朝の6時まで寝れない、日中作業していると急に脈拍が上がって息苦しくなる、動悸がひどい、常に倦怠感を感じる。しばらくこんな状態が続いた。でも、そんな自分を認めたくない自分がいた。こんなところでへばっているわけにはいかない。もっともっと頑張らなきゃいけない。しかしその思いが強くなるほど、気持ち的にもだんだんつらくなっていった。日中誰かと会っているときは大丈夫でも、家に帰れば何故だかすごく落ち込む日が続き、誰かから連絡がくるのもこわくなっていった。
そんなある日、自分の中で何かが決壊した。何がきっかけだったとかはよく覚えていない。きっかけなんかあったのかもわからない。気づいたらベットの中で涙が止まらなくなっていた。
「もう駄目だ」
東京に来てから初めて思った。なんでこうなるに至ったかはわからない。誰かに何か言われたわけでもないはずだ。今から思えば不思議ではあるが、この時の自分にはこうとしか思えなかった。その後病院に行き、うつ病と言われた。とにかくかかわっていた人全員に謝って、実家に帰ることにした。そこから一か月ほど、あてもなくドライブしたり誰にも会わず自分の気持ちの赴くままに過ごした。
今から思っても、何に追い詰められていたのかははっきりはわからない。しかし、こうなってしまった原因の1つには、自分の考え方もあるのではないかと最近思うようになった。振り返ってみると、自分はあまり人に弱さを出したことがなかった。というより、弱いことは悪いことだと思っていたと言ったほうが正しいかもしれない。だから少しでも調子が悪くなると、「周りの人に迷惑をかけてはいけない」「何もできていない自分に価値はない」そう思い焦ってとにかく突っ走っていた。これまではそれで何とかなっていた。おそらく去年の11月頃からそんな状態だったと思う。なんとなく調子悪いのはわかっているけど、何もしないことへの罪悪感のほうが大きい、だから何振り構わずやる。特に意識してはなかったが心ではそう思っていたのだろう。そして、その状態を放置し続けた結果が上に記した通りだ。じゃあどうすればよかったのだろうか。その時はわからなかったが、今はこうすればいいんじゃないかなと思っていることが1つある。それは弱い自分に、調子の悪い自分に、何もしていない自分に〇をつけて認めてあげることだ。今までの自分にはあまり経験がなかっただけで、冷静に考えれば人間誰だってずっとフルパワーで生きていけるはずがないということは当たり前だ。他の人には見せないようにしているだけで、気分が乗らず落ち込んだり、ちょっと立ち止まったりしたくなる時は誰だって必ずある。そういう時、やる気が起きず何も行動したくなくなったりする。そして、何もしていない自分は何者でもないと思ってこわくなり焦ってしまう。これではただでさえ調子が悪いのにさらに悪循環だ。しかし、こんな時くらい、というよりこんな時だからこそ、もっと力を抜いて考えてみてもいいんじゃないだろうか?調子が良くても調子が悪くても、元気に活動しているときも疲れて休んでいるときも、もっと言えば起きているときも寝ているときも。そのどの時の自分をとっても、それが「自分」ということは不変の事実であって、それ以上でもそれ以下でもない。調子がいい時が本当の自分で、そうでないときは自分じゃないなんてことはない。だから何もしなくていなくたって焦る必要なんて全くない。そこに自分がいる限り、それは自分なのだ。どんな自分であっても、それが本当の自分。そう考えれるようになれば、どんな自分にも〇をつけて認めてあげることができるのではないだろうか?
こう思えるようになった時、すっと肩が軽くなった気がした。自分がこう思えるようになったのは、病院に行った後に自分の状態を打ち明けたゼミ生の一言があったからだ。いわば自分が人生で初めて弱さを人に言えた時、そのゼミ生は、「病院いってえらい!!」と言ってくれた。どこまで考えてくれていたのかはわからないが、こんな状態の自分を認めてくれる人がいて、「こんな自分でもいいんだ」と思わせてくれた。傍から見れば些細な一言かもしれないが、今まで弱さを認めれなかった自分にとっては大きすぎる一言だった。この一言がなければ、このnoteも存在しなかっただろう。
今まで自分の姿を鏡以外で見ることは少なかった。しかし新型コロナウイルスに世界が侵された今、授業もミーティングも友達との飲み会もすべてオンラインになった。不思議なことに、オンラインの世界では今まで鏡以外で見えていなかった自分の姿が常に目で見ることができる。その姿を見てどう思うかは人それぞれだろう。ただこれだけは言いたい。たとえその自分がどんな姿をしていても、その自分にどう思ったとしても、心の中でそっと頭をなでてあげることを忘れないでほしい。
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