未完
プレイフルシンキングを最初に一人で読んだ時に感じたことは、理想論に過ぎないということだった。もちろんこの本に書いてあることを実践できればそれはとても素晴らしいことだしいい人生を送れるのだと思う。でもこの本に書いてあることを簡単に実践させれるほど現実甘くないに決まってる。色々なしがらみとかそれを阻むものはたくさんあるし、本気でそれができると思ってる人がいるなら夢想家だって今までの自分だったら馬鹿にしてると思う。
でもABD(Active Book Dialog)でプレイフルシンキングを読んで感じたことはそれとは全く別のことだった。というよりABDで読んだからこそ気づけたことがあった。それはいかに自分が結果しか見えていない人間なのかということ。最初から「プレイフルシンキングを習得できた!」という結果し見えていないから理想論だと感じるのだ。プレイフルシンキングの中であったデモテープ理論やプロトタイプの話。常に完成したものを出そうとするのではなく、未完成の状態で一度投げてみる。そこから他者との対話を通してより良い形を目指していく。ABDのダイアローグの時間にそれの可能性を感じた。自分が疑問に感じたことをうまく言葉で伝えきれずにいたところ、一緒にダイアローグをしていた人がうまく自分の言葉を引き出してくれた。その時に何か自分の中で背負っていたものが取れた気がした。全部を自分でやろうとしなくていい。最初から完璧なものを目指すからそれにとらわれてしまい色々な可能性がつぶれていく。自分ができなくても誰かがそれを引き出してくれる。自分の能力を最大化してくれるのは自分自身ではなく他人でなんだ。だから、大切なのは未完成であり且つ不完全なものを表に出そうと思える勇気であり、そこからよいものにしていくという過程にフォーカスするということなのである。自分が最初、プレイフルシンキングを理想論としか思えなかったのも、最初から「このノウハウをすべて習得せねば」という結果しか見えてなかったからなのだと。そうではなくて、少しずつこうなっていけばいい、まずはいつも「Can I do?」を考えていたところを「How can I do?」と考えるようにすることから始めれないばいいんだ。そう考えるだけで、プレイフルシンキングは全く理想論のようには思えなくなった。
同じようなことがプレイフルシンキングの中でも触れ垂れていた目標設定の話でも通じていた。結果に着目した成果目標ではなく、その過程で自分が何を得たかという学習目標に着目する。、それから派生して、目標を「達成すべき課題」と捉えるのではなく、「憧れ」や「希望」に近いものとして捉えてみては?というツイートもあった。そうすることで、達成したかどうかの「結果」ではなく、それに向けて頑張る「過程」が大切だと気付けるはずだと。明確な目標=ゴールが設定されている人こそ偉い、そう思っていた自分にとって今までの考えをいい意味でぶっ壊された気がした。ゴールがないことへの怖さを感じ、目の前にのびるゴールへの一直線の道しか見えていなかった自分を解放してくれたような、そんな感覚だった。
最初からゴールを見ようとしなくていい。未完成な状態であることに怖がらないこと。その状態から、色んな人に会って色んな考え方に触れ、色んな変化を受け入れながら試行錯誤をし進んでいく。そんな生き方もあると気づけたことに、今回のカフェゼミのサブゼミをした意味があったと思う。