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ブラジルお寺から朝のお勤めとお話し。『口伝鈔』第八章 ポルトガル語、原文、現代文「こころ俗塵に染みて智もなく徳もなし。」

おはようございます。 Bom dia a todos!

『大無量寿経』(巻上)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E8%AA%AC_%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C_(%E5%B7%BB%E4%B8%8A)
『大無量寿経』(巻下)
http://labo.wikidharma.org/index.php/仏説_無量寿経_(巻下)


O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita (1)
https://www.dropbox.com/s/4jizvk1admnv3rm/sutra%20Buddha%20vida%20infinita%20-%20parte%20um.doc?dl=0
O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita (2)
https://www.dropbox.com/s/o1uj62burt5yizf/sutra_Buddha_vida_infinita_-_parte_dois.doc?dl=0

BU" SE' MU RYÔ JU KYÔ (Pronúncia japonesa)
https://www.dropbox.com/s/jb3zfnv4qhzoya0/BU%22%20SE%27%20MU%20RY%C3%94%20JU%20KY%C3%94%20KAN%20J%C3%94.pages?dl=0


Entretanto, os seres vivos da era atual, habitando no mundo corrupto do fim da Lei, vivem em um tempo sem preceito. Não há aqueles que defendem preceitos, nem aqueles que os violam. Como resultado, embora eu tenha minha cabeça raspada e use vestes de um sacerdote, meu coração é idêntico aos seres mundanos e ordinários e eu como essas coisas. Oh, se em vez disso, apenas este forte desejo de comer fosse transformado em libertação desses seres vivos saborosos! Meu título Shaku-shi35 é de pouca importância.

35
Um doipulo de Buda Shakyamun. Monge

Google翻訳
しかし、律法の終焉で堕落した世界に住む現代の生き物は、教訓のない時代に生きています。 戒律を擁護する者も、それを侵害する者もいません。 その結果、私は頭を剃って僧侶のローブを着ていますが、私の心は平凡で普通の存在と同じであり、私はこれらのものを食べます。 ああ、この強い食べたいという欲求が、代わりにこれらのおいしい生き物からの解放に変わったなら! 私のShaku-shiのタイトルはほとんど重要ではありません。


原文
しかれども末法濁世の今の時の衆生、無戒のときなれば、たもつものもなく破するものもなし。これによりて剃髪染衣のそのすがた、ただ世俗の群類にこころおなじきがゆゑに、これらを食す。とても食するほどならば、かの生類をして解脱せしむるやうにこそありたく候へ。しかるにわれ名字を釈氏にかるといへども、こころ俗塵に染みて智もなく徳もなし。


出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
無戒
むかい
戒律がないこと。(口伝鈔 P.886)

とても食するほどならば
とてもしょくするほどならば
どうせ食べるぐらいなら。(口伝鈔 P.886)
釈氏
しゃくし
出家したものは、在家の姓を捨てて、釈尊によって姓を立てるので釈氏という。(口伝鈔 P.886)

現代文
しかしながら濁りけがれた末法の世の、今日のひとびとは、すでに仏の戒めを知らないから、これを守るものもなく、破るものもない。このために髪を剃り、法衣をまとうその姿も、ただ俗世間の人たちと心は同じであるために、これらの肉を食べるのである。しかし同じ食べるくらいなら、その生きものに迷いを離れて、さとりを開かせるようでありたいと思う。ところがわたしは、名は釈氏とおなじ名を名のっているものの、心は世俗の塵に染まって、智慧もなく徳もない。



末法  親鸞が最澄の作として、 『教行信証』化土巻に、ほとんど全文に近いほど引用した 『末法燈明記』の文には、今の時は「像法最末」のときである、すでに末法と同じである、したがって末法には言教だけあって行証がないので、「もし戒法が有るならば、破戒が有るだろうが、既に戒法が無いのに、何の戒を破ることによって破戒が有ろうか、破戒すら無い、まして持戒があろうか」(同二。一七〇)と述べている。このことを注意しなければならない。当時、すでに氷承七年(一〇五二)に世は末法にはいったと考えられていた。


釈氏 出家して在家当時の姓を捨てて、釈尊によって姓を立てる意味で釈氏という。釈雲照はこの一例。釈子は釈尊の子あるいは教えの子という意味である。


https://ja.wikipedia.org/wiki/釈雲照


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Shu Izuhara 泉原 秀
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