口伝鈔 第17章 「なげきかなしまんをもいさむべからずと[云々]。」 ポルトガル語、日本語原文 朗読動画あり。
おはようございます。
Bom dia a todos!
正信偈 Shoshingue p29
https://www.dropbox.com/s/yzwfdyup0v4wxn8/gongyo-shu.pdf?dl=0
Mesmo alguém que tem o Coração Confiante da Fé no Ir-nascer na Terra Pura, diante do fim da transmigração infinita no samsara, sempre sentem a tristeza e a dor crescerem profundamente. Os enlutados cercam cama e o travesseiro, soltando gritos sufocados de dor. Uma multidão de pessoas em um quarto, a saudade dos defuntos, incapazes de parar de chorar, distraindo o falecido não menos importante. Como ente profano modesto, é indecoroso pensar que seja inadequado para o Ir-nascer pelo Outro Poder. Assim não hesite para o medo de se perturbar com o reino para onde os amados vão. Chorar e chorar inconsoladamente está perfeitamente bem.
DeepL翻訳
浄土に往生するという確信の心を持っている人でも、無限の輪廻転生の果てに直面すると、常に悲しみと苦しみが深まっていくのです。
弔問客はベッドや枕を囲み、苦しそうな声を上げている。
亡き人を偲び、涙が止まらず、亡き人に気を取られている部屋の中の大勢の人々。
控えめな冒涜的な存在として、それを適さないと考えるのは見苦しい。アナザーパワーで生まれて行く。
だから、愛する人が行く領域で自分が動揺することを恐れて躊躇してはいけない。泣いて泣いて泣きまくっても全く問題ありません。
原文
浄土往生の信心成就したらんにつけても、このたびが輪廻生死のはてなれば、なげきもかなしみももつともふかかるべきについて、後枕にならびゐて悲歎嗚咽し、左右に群集して恋慕涕泣すとも、さらにそれによるべからず。さなからんこそ凡夫げもなくて、ほとんど他力往生の機には不相応なるかやともきらはれつべけれ。さればみたからん境界をもはばかるべからず、なげきかなしまんをもいさむべからずと[云々]。
後枕
[あとまくら] 足もとや枕もと。(口伝鈔 P.906)
群集
ぐんしゅう
人々が群がり集まること。 (御文章 P.1090)
それによるべからず
それによって往生が左右されることはない。(口伝鈔 P.906)
みたからん境界
[きょうがい] 逢いたいと思う妻子等のこと。(口伝鈔 P.906)
東本願寺聖典 ふりがな付き
https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=668
現代文
浄土に生れることができると信じ切ることができたようにみえるにつけても、このたびの死は生死輪廻の終りなのであるから、嘆きや悲しみがもっとも深いと思われるのであって、枕もと・足もとにいならんで、嘆き悲しみ、嗚咽し、左や右に群がり集って恋いしたい、涙をながすとしても、けっしてそのことに左右されるものではない。そのようなところがなければ、かえって愚かものらしいところがなく、ほとんど他力を頂いて浄土に生れるひととしてはふさわしくないのではないか、とも嫌われたことだろう。だから「死者を看とりたいと思うことを遠慮してはならないし、嘆き悲しむとしても、それをいさめてはならない」といわれるのである。
四
愚かものらしいところがなく、…… 臨終において念仏者はどのようでなければならないか、これについて、善導( 『観念法門』、同一。六二五ー六)も、源信( 『往生要集』中巻、臨終行儀、同一・八五四|八六一)も、法然(法然のものとして「臨終行儀」と名づけるものがある。その信憑性は疑わしい。「逆修説法」その他にこれをとく。同四。四三一)も説いているが、親鸞がこのように説いていることは、注目されなければならない。臨終にあって心静かに念仏を称えること(臨終正念)よりも、平生において信心をうること(平生業成)を重視した、その一端がここにも見られるのである。
歎異抄・執持抄・口伝抄・改邪鈔 (東洋文庫0033) Kindle版
親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)
参考
Tannisho
Capítulo XIV
Há os que proclamam que é necessário crer que a recitação de um único Nembutsu é capaz de eliminar o pesado Karma acumulado durante oito bilhões de Kalpas.
Essa tese consiste em afirmar que os perversos que durante sua vida praticaram as dez más ações1 e as cinco perversidades2, sem jamais terem praticado o Nembutsu, poderão ser salvos por um instrutor que lhes diga na hora da morte que a recitação de um Nembutsu elimina o pesado karma de oito milhões de Kalpas, proporcionando o ir-nascer3.
Isso foi escrito para que possamos avaliar a gravidade das dez más ações e das cinco perversidades e para que possamos saber quão grande é o poder da fé que apaga tais culpas. De maneira alguma nossa fé deve ser restringida a isso, porque é quando somos iluminados pela Luz de Amida4 que em nós brota a Fé manifestada através de uma recitação do Nembutsu e que então alcançamos uma Fé inquebrantável como o diamante, que nos faz ingressar no círculo daqueles que têm o ir-nascer absolutamente garantido. Na hora da morte, nossas incontáveis paixões e ilusões são transformadas e despertamos para o conhecimento do Real Não-Nascido e Imperecível.
Sem esse Voto Compassivo, como poderiam os desgraçados culpados se libertarem dos nascimentos e das mortes? Meditando sobre esse ponto, chegaremos à conclusão que todos os Nembutsu que recitamos durante toda a nossa vida visam manifestar nossa gratidão em relação ao benefício que nos foi concedido pela Graça Compassiva do Tathagata.
Acreditar que, à medida que recitamos o Nembutsu estamos apagando nossas faltas, implica em que estamos nos esforçando para alcançar a Terra Pura realizando práticas que nos libertam das culpas. Se assim for, na medida em que todos os nossos pensamentos desta vida são cadeias que nos prendem aos nascimentos e às mortes, teremos que recitar o Nembutsu constantemente, até o instante de nossa morte. Entretanto, vivemos presos às contingências do Karma, sujeitos a acidentes inesperados e a doenças que podem perturbar nossa razão e nos impedir de recitar o Nembutsu na hora da morte5. Como poderemos então apagar as faltas referentes a esse lapso de tempo? Será que não poderemos ir-nascer, se as faltas não tiverem sido apagadas? Se nós confiamos no Voto que absolutamente não nos abandona, ainda que surjam imprevistos, que cometamos faltas e expiremos sem recitar o Nembutsu, alcançaremos imediatamente o ir-nascer.
Além disso, se nós recitamos o Nembutsu na hora da morte e se, à medida que se aproxima o momento de nossa Realização nós passamos a confiar cada vez mais em Amida, isso ocorre porque nós nos sentimos cada vez mais gratos em relação à Graça recebida.
Aquele que intenta apagar suas culpas tem fé em suas próprias forças, intenta conseguir recitar o Nembutsu na hora da morte e não possui a genuína crença no Outro Poder.
1 As dez más ações são:
Matar
Roubar
Cometer adultério
Mentir
Usar linguagem ambígua
Falar mal do próximo
Adular
Não controlar os desejos
Entregar-se à cólera
Aceitar doutrinas errôneas
2 As cinco perversidades são:
Matar o pai
Matar a mãe
Matar um Mestre
Perturbar a harmonia da Comunidade Budista
Derramar o sangue de um Buda
3 Essa afirmação realmente consta dos Sutras básicos do Amidismo. 4 Símbolo da Infinita Sabedoria e da Infinita Compaixão de Amida.
5 No Japão da época, estava muito difundida a crença de que recitar o Nembutsu na hora da morte era condição necessária para alcançar o ir-nascer na Terra Pura.
親鸞仏教センター
歎異抄第14条
第十四条のテーマは「滅罪(めつざい)」である。罪をいかにして滅却(めっきゃく)するかという人間の発想を問題としていく。 ここに中世の人びとが、どれほど犯してきた罪に敏感であったかということが想像される。戦乱の世であれば、殺人に悩む武士の姿があった。また、農業や漁業や狩猟という第一次産業に携わってきた人びとには殺生(せっしょう)への罪悪感があった。
現代人が遠く忘れてきた、ナイーブな感性がそこにはある。生きるということは、罪をつくることなしには成り立たない。しかし、現代人は罪に悩まなくなったと語るのは早計である。ひと知れず罪にもだえているひとは多い。罪に悩むということがあって、はじめてそこに「救い」が要求されてくるのだ。罪に悶絶(もんぜつ)する人間に照準を合わせて、罪を恐れるなと愛の言葉を『歎異抄』は発してくる。(武田定光)
http://www.shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn18.html
第14条
(14) 一 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、はじめて善知識のをしへにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念といへるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。
そのゆゑは、弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩・悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。
念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのち尽きんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしてをはらん、念仏申すことかたし。 そのあひだの罪をば、いかがして滅すべきや。罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また念仏の申されんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。罪を滅せんとおもはんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて候ふなり。
現代文
「南無阿弥陀仏」と、ひと声(こえ)念仏することによって、八十億劫という果てしない時間に私が犯してきた罪を一気に消滅させることができる、と信じなさいということについて。
平生(へいぜい)、念仏を称えることなくして臨終を迎えた十悪五逆の罪人が、生まれて初めてよき師の教えに遇(あ)い、ひと声称えれば八十億劫の罪を消し、十声称えれば十倍の八百億劫の重罪を消して浄土へ往生することができるというこの主張は、『観無量寿経』(下々品(げげぼん)の経文)を根拠とするものである。
これは、十悪・五逆の罪がどれほど重いかをわれわれに教えるために、一声・十声と表現しているのであろうか。これは、念仏が罪を消すという利益(りやく)を表している。しかし、いまだわれわれが信ずるところのものではない。
その理由は、阿弥陀の光に照らされて、本願によって生きようという心が湧(わ)き起こる。それは金剛のように堅い信心を獲得(ぎゃくとく)しているのであるから、すでに正定聚(しょうしょうじゅ)の次元に包摂(ほうせつ)され、命終したときには、さまざまな煩悩や悪業を転換して、無上菩提を開くことができるのである。
この阿弥陀の悲願がなかったならば、私たちのように目先のことに翻弄(ほんろう)され、罪に無感覚である人間が、どのようにして迷いの眼を翻(ひるがえ)して、真実に目覚(めざ)めて生きることができようか。そのように受け止めれば、一生の間、称える念仏は、ひとつ残らず、如来大悲のご恩への感謝の表れであると思われてくるだろう。
念仏を称えるたびごとに、自分の犯した罪を消そうと思うのは、自分の力で罪を消して、弥陀の浄土へ往生しようと努力することになるのである。もしそうであれば、一生の間の、ありとあらゆる思いは、すべて迷いの生活へつなぎ止める鎖となるから、いのちが終わるまで、念仏を称え続けてはじめて往生が可能であろう。
ただし、人間の生存は、自由意志のままにならない限定性を生きるものであるから、どんな思いがけないことに遭あうかもわからず、身心の病の苦しみに責められ、臨終に心が乱されて、念仏を称えて終わることができないかもしれない。その間の罪は、どのようにして消すことができようか。罪が消えなければ、往生は不可能なのか。
われわれを摂め取って捨てない弥陀の本願を信ずれば、どのような不慮のことにも遭い、罪業を犯し、たとえ念仏を称えずにいのちが終わろうとも、本願のはたらきで、直ちに往生を遂げることができるのである。
また、いのちの終りに念仏が称えられたとしても、それは、いままさに浄土のさとりが開かれるときが近づいて、いよいよ弥陀の大悲を信じ、救われるご恩への感謝を表すことになるのである。念仏を称えて罪を消そうと考えるのは、自力の発想であり、臨終に心の乱れをなくして念仏しようとするひとの本音であるから、そのひとは他力の信心がないのである。