口伝鈔 第15章 「久遠実成弥陀仏 」ポルトガル語、日本語原文 朗読動画あり。
おはようございます。 Bom dia a todos!
『大無量寿経』(巻上)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E8%AA%AC_%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C_(%E5%B7%BB%E4%B8%8A)
『大無量寿経』(巻下)
http://labo.wikidharma.org/index.php/仏説_無量寿経_(巻下)
O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita (1)
https://www.dropbox.com/s/4jizvk1admnv3rm/sutra%20Buddha%20vida%20infinita%20-%20parte%20um.doc?dl=0
O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita (2)
https://www.dropbox.com/s/o1uj62burt5yizf/sutra_Buddha_vida_infinita_-_parte_dois.doc?dl=0
BU" SE' MU RYÔ JU KYÔ (Pronúncia japonesa)
https://www.dropbox.com/s/jb3zfnv4qhzoya0/BU%22%20SE%27%20MU%20RY%C3%94%20JU%20KY%C3%94%20KAN%20J%C3%94.pages?dl=0
Como Tathagata Amida é definido como um corpo de recompensa do Dharma, não coloca a nossa escola em conflito com outras escolas. É um conceito antigo que existe há séculos. Assim, Keikei64 diz: "Dos louvores extraídos dos vários ensinamentos, muitos são dirigidos a Amida65". Danna-in66 comenta: "A realização da budeidade de Amida em um passado distante é um ponto explicado em vários sutras67 “
64 Jinggi Zhàrnrán, 711-782
65 Makashi kan bugyō den kōketsu 『(摩訶)止観輔行伝弘決』(しかんぶぎょうでんぐけつ)
66 NT. : Kakuun (935-1007), renomado monge da escola Tendai
67 [Nembutsuhōgo]
アップル翻訳
タタガタアミダはダルマ報酬機関として定義されているため、私たちの学校は他の学校と対立しません。それは何世紀にもわたって存在してきた古い概念です。したがって、Keikeiは「様々な教えから抽出された賞賛のうち、多くはAmidaに宛てられています」と述べています。Danna-inのコメント:「遠い過去における阿弥陀の仏陀の実現は、いくつかの経典で説明されているポイントです」
(55)
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫とときたれど
塵点久遠劫よりも
ひさしき仏とみえたまふ
(55)
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫とときたれど
塵点久遠劫よりも
一大三千界ヲスミニシテ コノスミヲフデノサキニチトツケテ クニヒトツニチトツケ クニヒトツニチトツケテ ツケツクシテ コノチリノカズヲカズヘツモリタルヲ ヂンデンクオンゴフトイフナリ
ひさしき仏とみへたまふ
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
塵点久遠劫
じんてんくおんごう
無限の過去 (浄土 P.566)
Mida Jôbutsu no konokata wa
Ima-ni jikkô-to tokitaredo
Jinden Ku-on-kô yori-mo
Hisashiki Butsu-to mietamô
Desde que Amida se tornou um Buda
Já se passaram dez kalpas... (assim diz o Sutra).
Entretanto, Ele parece ser um Buda mais antigo
Que os inumeráveis kalpas
Tão inumeráveis quanto o número de partículas do Universo.
Shinran Shônin (Jôdo Wasan – Hinos de Louvor à Terra Pura inspirados no Grande Sutra)
Rev. Wagner Haku-Shin / Shinshû Ôtani-Ha Apucarana Nambei Honganji
http://honganji.org.br
お西オフィシャル
(55)
Desde quando Amida num Buda se tornou Dez kalpas já passaram.
Assim diz o sutra.' Mas Ele parece ser um Buda
Mais velho do que inumeráveis kalpas.²
1 Assim diz o sutra ときたれど: E exposto no Sutra Maior que Amida tornou-se num Buda há dez kalpas atrás.
2 Inumeráveis kalpas 塵点久遠劫: Mais precisamente, kalpas tão inumeráveis como o número de partículas do Universo. Kalpa é um incalculável longo período de tempo.
O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita (1)
https://www.dropbox.com/s/4jizvk1admnv3rm/sutra%20Buddha%20vida%20infinita%20-%20parte%20um.doc?dl=0
O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita (2)
https://www.dropbox.com/s/o1uj62burt5yizf/sutra_Buddha_vida_infinita_-_parte_dois.doc?dl=0
partícula
[paɾ ́tikula]
女
1 小部分,小片,かけら:
sagrada partícula
カトリック聖餅,ホスチア.
2 微粒子; 物理粒子:
partícula alfa
アルファ粒子.
partícula elementar
素粒子.
3 文法[前置詞・接続詞などの]不変化詞,小詞,小辞; 接頭辞,接尾辞
原文
一 真宗所立の報身如来、諸宗通途の三身を開出する事。
弥陀如来を報身如来と定むること、自他宗をいはず古来の義勢ことふりんたり。されば荊渓は、「諸教所讃多在弥陀」(止観輔行伝弘決)とものべ、檀那院の覚運和尚は、また「久遠実成弥陀仏 永異諸経之所説」(念仏宝号)と釈せらる。
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
通途
つうず
一般的。通常の。華厳・天台・法相宗などの一般仏教の義を指す。(口伝鈔 P.898, 改邪鈔 P.939)
ことふりんたり
言いふるされている。(口伝鈔 P.898)
荊渓 荊渓湛然(けいけい たんねん)
けいけい
(711-782)唐代の僧。中国天台宗第六祖。名は湛然(たんねん)。(口伝鈔 P.898)
諸教所讃…
しょきょうしょさん
「諸教の讃ずるところ多く弥陀にあり」 (口伝鈔 P.898)
覚運
かくうん
(953-1007)比叡山東塔檀那院に住し、その教学は檀那流といわれ源信(げんしん)和尚の慧心流と共に日本天台教学の二大学派と称される。(口伝鈔 P.898)
久遠実成(大事 リンク)
くおん-じつじょう
久遠劫の過去世において実に正覚しょうがくを成就し仏になっていること。一般に釈尊について、そのさとりの内容、つまり法が常住不変であることにもとづいていわれるが、これに準じて阿弥陀仏も久遠実成の古仏、久遠実成阿弥陀仏といわれる。すなわち経典には十劫じっこうの昔に成仏されたとあるが、実は久遠の昔からすでに成仏せられていた古仏であるということ。 (持名鈔 P.1001,真要鈔 P.969)
御開山の仏身観は『論註』の法性
ほっしょう・方便の二種法身ほっしんとして阿弥陀仏を領解されておられる。法性法身とは、さとりそのものである法性真如しんにょを本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定を超えた認識を超えたものであり、方便法身とは、「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり」(一多 P.690)の阿弥陀如来だとされておられる。「浄土和讃」で、
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫とときたれど
塵点久遠劫よりも
ひさしき仏とみえたまふ (浄土 P.557)
と、かって学んだ天台の塵点久遠という『法華経』の語を用いて「如来常住 悉有仏性」という大乗仏教の理を示しておられる。
現代文
真宗で説く報身仏は、諸宗で通常用いられている三身(注1)を代表すること。阿弥陀仏を報身仏と定めることは、自宗・他宗の差別なく、従来説かれて来た解釈で、こと新しいものではない。だから刑渓(注2)は「どの教えも讃えている所は多く阿弥陀仏である」とものべ、檀那院の覚運(注3)和尚は「永遠の昔、阿弥陀仏となられたことは、永く多くの経典に説くところと異なっている」と解釈せられている。
二
刑渓
シナ天台宗の第六祖刑渓湛然(けいけい たんねん)。ここにあげる言葉は 『止観輔行伝弘決(しかんぶぎょうでんぐけつ)の言葉である」(大正大蔵経四六・一八二下)。
三
檀那院の覚運
わが国天台宗中興の祖である慈恵大師良源の弟子で、後世起った檀那流の祖として、慧心流の祖、源信と対照される。いまここに引かれた文は 『念仏宝号』にみえるもの(大日本仏教全書二四・三〇六下)であるが、正しくは「この故に〔永遠の昔〕阿弥陀仏となられた……」とある。
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