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口伝鈔 第15章 「釈迦一代の出世の元意、弥陀の一教をもつて本とせらるる」 ポルトガル語、日本語原文 朗読動画あり。

おはようございます。
Bom dia a todos!
正信偈 Shoshingue p29
https://www.dropbox.com/s/yzwfdyup0v4wxn8/gongyo-shu.pdf?dl=0


Essa visão de Nome e Voto é apresentada através de Três Sutras expostos para pessoas comuns que ma ruim no reino posterior. Vários ensinamentos do Caminho dos Sábios são meramente uma introdução. Isto é o que vários comentários do Mestre Shan-tao, o Mestre de Kōmyōji, tornaram inequivocamente claros.
Visto nesta luz, claramente a razão fundamental para o apareci- mento de todos os Budas neste mundo é encontrada em uma cláusula que declara o desejo de libertar todos os seres vivos presos num ciclo de transmigração sem fim. Portanto, o Sutra do Lótus acreditado por muitas escolas do Caminho dos Sábios, sendo o texto autorizativo, expondo o propósito do surgimento de Shakyamuni neste mundo e os Ensinamentos da Terra Pura atual são exata- mente os mesmos em essência.
Os cinco incidentes trágicos no palácio real foram expostos durante os oito anos em que o Buda ensinou o Sutra do Lótus. Naquela época, o Buda desapareceu da assembleia em Rājagriha e apareceu no palácio real, onde deu um sermão sobre O Outro Poder. A razão fundamental para todos os Budas que aparecem neste mundo, de Kaitoku até Shakyamuni, era lançar as bases para um único Ensinamento de Amida em todos os lugares.

75 Em (Hōjisan]

原文
これによりて「世尊説法時将了」(法事讃・下)と等釈[光明寺(善導)]しまします。一代の説教、むしろをまきし肝要、いまの弥陀の名願をもつて付属流通の本意とする条、文にありてみつべし。いまの三経をもつて末世造悪の凡機に説ききかせ、聖道の諸教をもつてはその序分とすること、光明寺の処々の御釈に歴然たり。ここをもつて諸仏出世の本意とし、衆生得脱の本源とする条、あきらかなり。いかにいはんや諸宗出世の本懐とゆるす『法華』において、いまの浄土教は同味の教なり。『法華』の説時八箇年中に、王宮に五逆発現のあひだ、このときにあたりて霊鷲山の会座を没して王宮に降臨して、他力を説かれしゆゑなり。これらみな海徳以来乃至釈迦一代の出世の元意、弥陀の一教をもつて本とせらるる大都なり。

世尊説法…
  世尊法を説きたまふこと、時まさに了おわりなんとして、慇懃に弥陀の名みなを附属したまふ。五濁増の時は多く疑謗し、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず」(法事讃・下)(講私記 P.1071)

むしろをまきし肝要
むしろをまきし-かんよう
 むしろを巻いたように、一代仏教をたたみこんだこと。(口伝鈔 P.901)

衆生得脱
しゅじょう-とくだつ
 衆生が解脱げだつをうること。(口伝鈔 P.901)

同味の教
どうみ
 『法華経』と同時に説かれた『観経』は、同じ醍醐味だいごみである一乗円経が説かれているのでこのようにいう。 (口伝鈔 P.901)

法華の説時八箇年
ほっけのせつじはっかねん
 『法華経』は、釈尊七十二歳の時から八箇年にわたって説かれたという伝承がある。 (口伝鈔 P.901)

王宮に五逆発現のあひだ
王宮おうぐに五逆ごぎゃくの発現ほつげんのあひだ
王舎城において阿闍世王が五逆の罪を犯すという事件が生じた時。『観経』に説かれる。(口伝鈔 P.901)

霊鷲山
りょうじゅせん
 耆闍崛山(ぎしゃくつせん) (御文章 P.1165)
大都
たいと
 あらまし。おおかた。大筋。(口伝鈔 P.901)
 おおよそ。 だいたい。 (要集 P.1117)

現代文
これによって「仏の説法の時はまさに終った」と善導大師(光明寺)は解釈しておられる。釈尊が生涯にわたって説かれた教えの肝要を、むしろを巻いたように〔ここにとき示されて」、この阿弥陀仏のみ名と誓いをもって世のひとびとに託し与え、広く行わせようとした本意については、経文にあたって、見るとよい。いまの三部経をもって末の世の悪を造る愚かなひとたちに説き聞かせ、聖道門のさまざまな教えをもって、三部経の序文とすることは、光明寺のご解釈の随所に歴然としている。これをもって諸仏の世にあらわれた本意とし、世のひとびとが救われる本源とすることは、明らかである。こうしたわけであるから、まして諸宗がひとしく、仏がこの世にあらわれた本意を示すものと認める 『法華経』と、いまの浄土の教えは、まったく同一の教えである。 『法華経』の説かれた八年の一間に、王舎城の王宮に五逆の罪を犯した事件が発生したために、この時にあたって仏は 『法華経』を説いていた霊鷲山での説法の座から姿を消して王舎城内に姿をあらわし、他力の教えを説かれたものだからである。これらはみな、海徳仏より以来、釈尊に至るまでの諸仏が世にあらわれた生涯の素志であって、阿弥陀仏の教えだけを根本とせられた大筋を示したものである。

十六
仏の説法の時はまさに終った 『法事讃』下巻の文である(同一・六〇五)。


十七
『法華経』と、いまの浄土の教えは、まったく同一の教えである
覚如は 『出世元意』のなかで、「法華念仏同体異名事」として、ともに醍醐味で「同味」の教えであることを説いている。

十八
王舎城の王宮同じく 『出世元意』をもっていわせるならば、「法花は八個年の説なり。その説時にあたりて頻婆裟羅王の王宮に五逆発現するにちなんで、韋提の請に応じてはるかに霊山の会座を没して、……:王宮に影臨しましまして夫人に対して頓説しましますを 『観無量寿経』と名づく。法花同時の説なるによりて、同醍醐味の教といふなり」(同三。六三)とある。太子の阿閣世A; āta’atruが父王、頻婆裟羅Bimbisāraを幽閉殺害し、母、章提希Vaidehiを幽閉した事件で、王舎城Rā; agrhaにおこった著名の事件である。

感想
今日は28日 報恩講 本山での坂東節 結願日中



【11/28 讃仰講演会】親鸞聖人讃仰講演会(ライブ配信)18:00開始

「正覚の大音」宮下晴輝氏 (大谷大学名誉教授)清沢満之、阿含経、大乗仏教

「親鸞聖人の釈尊観」池田勇諦氏 (同朋大学名誉教授)






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Shu Izuhara 泉原 秀
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