自分のこと(発災から数日間)
・前書き
もう発災から10ヶ月が過ぎました。1日1日を思い返せば長いものの、あっという間の10ヶ月。という印象です。
あとひと月もすれば梅雨入り、あまり穏やかな気持ちではないですね。
熱海の災害のみならず、近年この時期には水害が発生します。今年こそは何も起こらない梅雨になって欲しいです。
起こらないで欲しいけど、起こった時に「このブログを読んでいてよかった」そう思ってもらえるように書いていきたいと思います。
多少記憶違いや日時が前後することがあるかも知れません、ですがおおまかな部分はその日あったことを書いています。
なお、引用やリンクに特別制限はかけませんが、使用する際には必ず事前にご連絡ください。
・翌日
基本的に常にSNSやニュースで様々な情報を仕入れては出し、をやっていました。
妻も私も寝れなくて4:30頃からLINEで寝れない。とやり取りをしていました。生きた心地がしない。妻はそう呟いていました。
午前中は同級生と連絡を取り合い、以前の記事で何度か出ている同級生のお母さんに部屋に行って必要と思われる物資をもらいました。
ただ、まだ発災翌日。何が必要なのかまだ全然わかっていない。
今思えば切れ者の彼でも、そのときは何かしなければ。と気持ちばかりが先行していたのかな?と思います。
昼過ぎに妻と下の子が避難していたハートピア熱海から妻の実家に戻ってきました。
妻と下の子を「よく生きてた、よく頑張った、ありがとう」と言って抱きしめました。今、思い返すだけでも涙が溢れそうです。
しばらく状況を聞いたりして、色々な話をしていると上の子が妻に抱きつきました(いつもやる)。それを見て下の子も抱きつき、私は3人を抱き込むようにしたとき、妻は涙を流していました。本当に全員無事でよかった。そう思った瞬間でした。
・7月5日
家が全壊ということが明らか(妻との会話から)になったので、罹災証明を発行してもらえると思い市役所に行きました。
そもそも災害発生の異常事態なので、熱海市全体が普段見ない光景ばかりでしたが市役所内はそれを集約しているような雰囲気でした。
災害対策本部のある4階の打ち合わせ場所のようなところは報道や、自衛隊の方々がいたり、あちこちにダンボールや捜索に使うような道具が置かれていました。人も多く、誰もが忙しなく動いている。そんな感じでした。
当時は自宅のあった場所に立ち入ることはできず、罹災証明の発行とはなりませんでした(確か7月下旬に発行)。
午後からはボランティア団体ボンジャスと合流し、前の記事の通り被災地に向かいます。
その時の話は前の記事に書きました。
一旦帰ろうか。という時にテレビ局に呼び止められました。
色々と取材を受ける中で「盛り土の存在は知っていましたか?」と聞かれ、知らなかった。と答えました。そして、盛り土のことについては使わないでくれ。とも伝えました。
何故なのか説明します。
発災から3日目、”この時点では” 被災者にとって盛り土があったかどうか重要ではない。と思っていたからです。
モニターの前にいる視聴者にとっては興味深い内容でしょう。でも、被災者にとっては見つからない身内、これからの生活、その方が大事だったからです。
盛り土のことを追う事も必要です。それはそれでやらなければならないこと。でもその時は、今は目の前のことで精一杯だし、いち個人が今から追ってもたかが知れている。
「できることをできるだけ」
自分ができることはこれからどうするか。困っている人を助けられないか。
原因究明や興味を煽るより自分の生活と支援のほうが大事だったからです。
・7月6日
この日の午前中もボンジャスと一緒に行動しました。
ボンジャスの寝泊まりする所や支援物資の倉庫などの拠点探し。
その後、国道から被災地を見に行きました。
途中、警察の捜索隊の方々が休憩している姿が見えました。
いつから晴れたか覚えていませんが…この日は暑かった。
堆積しているのはただの土砂ではありません。元々は家やその中にあったものが混ざっている。もちろんガラスの破片など危険なものも混ざっています。
その中を、場所によっては胸近くまではまるような状況で捜索するためには一番厚い胴長を履かなければならない。
暑い中で胴長を履いてマスクをしながら捜索する。本当に感謝しかありません。
昼過ぎ頃に街中へ戻ってきました。
ボンジャスは午後にも色々と活動するようでしたが、私は家族の元へ向かいました。
・7月7日
この日は雨でした。
前日から子どもたちは図書館で授業が始まった覚えがあります。
その時家族全員のカウンセリングを先生にお願いし、この日に受けました。
前に書いたように下の子が一人になることを怖がったり、大きな音を怖がるので心配でしたが上の子は全く心配なく、下の子も正常な反応で、しばらくすれば元通りになる。ということでした。
私と妻、それぞれ個別で面談しました。
そこで私は「同業者かと思うほど俯瞰して見れている」そして「あなたが一番心配です」と言われました。
自分自身おかしな話ですけど、被災したショックをあまり受けていないと感じていました。そして自分を客観視、俯瞰して見れていたのは多少メンタル的な事の知識があったこと、そして防災意識を災害前から持っていてシミュレーションをしていたからだと思います。
そして心配されているのは「よし、困っている人を助けよう!壊れたものは仕方がない、復興だ!」とポジティブな、つまり躁状態だったんだと思います。その状態は1ヶ月が限界だよ。と言われました。
俯瞰して見れてはいたものの、それが自分でコントロールできる範疇だったかというとそうではなかった。そう思います。
事実、この後災害以外の要因も重なり、精神的には自身だけでは回復不能な状況まで陥ることになりました。
・ボンドアンドジャスティスの心に残った会話・言葉
彼らから色々な事を教えてもらいました。
各地の被災地を訪れている彼らは色々な事を見てきています。
私のように彼らと一緒に行動していた人が奥さんと喧嘩になることがあるそうです。
「うちだって被災してるのよ!家のことほっぽりだしてなんでそっちの手伝いばっかりしてるの!」
「遠くから支援に来てくれているのに、何も手伝わない訳にはいかないだろ!」
というような感じです。
自分も同じ気持ちでした。彼らはそこまで分かってくれていました。
もう一つ、彼らに言われた一番重要なことです。なぜこのブログを書いているのか。それはこの一文に集約されています。
”引きずってでも避難させればよかった、って後悔する人が何人もいる”
以前書きました。自分はプロセスを全部間違った。結果的には妻も下の子も助かったけど、助かったからよかった。では済む問題じゃないんです。
身体の不自由な家族が「お前は逃げろ」と言ってきたとき、すんなり逃げれますか?
家族を助けたい、でも一緒にいたら自分の命も危うい。
逃げても後悔、ですよね。
家族を守るために、自身を守るためにはやめに避難してください。
”避難に逃げ損はない”
これも彼らから聞いた言葉です。
「避難したのに何も起きなかったじゃん」「避難した時間無駄になった」ではないんです。
「避難したけど何も起きなくてよかったね」が正解なんです。
「大丈夫だろう」ではなく「危ないかもしれない」と思うことが大事だと思います。
・あとがき
発災数日間はボンジャスとの行動が多く、彼らのことばかりになってしまいました。
でも彼らだからこそ、飾らない言葉でストレートに教えてくれる。
私が思っていたことを、わかりやすく一言で示してくれるので凄くすっきりしました。
発災からよく涙を流しました。でもそれは悲しみや苦しみの涙より周りが支えてくれたり思いやってくれる感謝の涙でした。
家族と一緒にいる時間以外は四六時中だれかと連絡を取り合っていて、全く休まることがない状態でした。
父はどちらかといえば放任主義で、「出かけるのか、大変だな」ぐらいしか声を掛けてこなかった記憶があります。
でも叔母から「家にいる間あんたがずーっと連絡取っててお父さん心配してたよ」と聞いて、やっぱり父は父でちゃんと見てくれているんだなぁと改めて感じました。
次は…特に決めてないです。時系列か何かに特化して書くかにしようと思います。