発災当日~数日間の動き
・前書き
GWももう終わりですね。書こう書こうと思って5月に入ってしまいました。
熱海市街は人も車も多く、もう災害があったことなんて忘れ去られたかのようです。
でも未だに警戒区域は立ち入れる日は限られているし、応急住宅での生活も『慣れた』ところもあれば、未だに慣れない、小さなストレスを感じたままのところもあります。
災害の影響は、まだ現在進行形です。今までニュースで見てきた被災地がハード面は復興しても、心や生活は元通りにはならないんだろうな。と思っていましたが、自分が体験したことによってそれは間違っていないと思いました。
前置きも書かなかった期間も長くなってしまいました。
ここから本題です!書き足していったのでかなり長くなってしまいます。
時間の余裕がある時に読んで下さい。
当日の事は書いたから翌日、と思ったんですが正直なところ余りにも目まぐるしくて時系列が整理できていないですし、今までのように何時に何が起きて、その時どうだったのか。とこと細かくは書けないと思います。
基本的にSNSで連絡をとっていたのでタイムスタンプで時系列を整理していますが、どうしても抜けがあったり間違いが出てきてしまうと思います。
多少のズレはご容赦ください。
・早速メディアから
発災当日の13:30頃にSNSを通して電話インタビューをしたい。と連絡がありました。まだ私自身もどんな状況なのか全くわからないし、実際に災害現場にいたのは妻と子どもで、妻から聞いた話でしか現場のことは分からないけどそれでもよければ。と対応しました。
私と妻のそれぞれの状況を伝えましたが、実際に放送(7/4)されたのは一言だけでした。そんなもんだよなぁ・・・。と放送をみていた記憶があります。
7/4の日中にもある新聞社の方から電話があり、そのときは妻と子どもがハートピア熱海から市街地へ移動してきた時だったので夜に電話で取材を受けました。
私達家族に起きたこと、近隣の方で消息が分からない方々がいること。そんなことを話したと思います。
何を話しているときだったか覚えていませんが、涙が溢れてきて横にいた上の子がティッシュを持ってきてくれました。多くの人の優しさで胸がいっぱいでしたが、子供のこの行動に、本当に4人無事でよかった。そう思いました。
・同級生とのやりとり
私の同級生は熱海で自営している仲間が何人かいて、そういう人間は熱海市内で多くのつながりを持っています。またそう言った仲間は消防団や色々な団体に加入しています。
そのネットワークから色々な情報をもらっては出し、また他からの情報をそちらに流し、と情報の出し入れをやっていました。
何よりも早い情報は現場にいる消防団からでした。
消防団に所属している友人は被災直後から活動していました。
主には規制線を超えて入ってこようとするマスコミや野次馬の監視や火事場泥棒への警戒と聞いています。
彼は、現地へ初めて入ったとき涙が止まらなかったと教えてくれました。
その想像を絶する風景が与えた心のダメージが、そのまま涙となって溢れたのだと思います。
「可笑しいだろ?被災者でもないのに、いい年こいたおっさんが現地で号泣してるんだぜ」
そう話してくれた彼の目は、必死に涙を堪えていたのを覚えています。
支援物資のところで書いた同級生、彼が「住む所がなければこの部屋(お母さん住んでいた部屋)を使っていい」と言ってくれましたが、市街地や駅から少し離れていたことや部屋数が少なかったこともあり気持ちだけありがたく頂きました。
消防団や上記の同級生だけでなく、多くの同級生が助けてくれました。それは今でもそうです。
私は大勢でいるよりも独りでいることを好む人間なので、どちらかといえば同級生との繋がりは薄かったですが、今はみんなといることが楽しい。
数少ない「災害の事を忘れられる」時間です。
・ボランティア団体
被災直後から福島にあるボランティア団体
”BOND & JUSTICE”
と連絡を取り合いました。
彼らとは伊豆稲取で開催されていたダンス&音楽イベントの関係で以前から知り合いでした。
発災当日から連絡を取り合い、5日の昼過ぎに熱海駅にて合流しました。
たまたま会社の上司が熱海駅まで来る予定で私が向かっている最中に熱海駅に着いたと連絡があり、その連絡を見ずに熱海駅に到着した彼らを見たときは「ガラの悪そうなのがいるなぁ~(失礼!自分もそちら側です)」と思いました。
彼ら3人とせかいえの辺りまで車で行き、歩いて行けるところまで行きました。
猪洞の少し高台から、初めて被災地を見ました。とは言ってもここからはそんなに見えませんでしたが。
自分の家のこと、近所のこと、どんな道だったかとか、色々話しました。
そうすると、近くにいる報道の人達が話を聞かせてくれと近寄ってきます。
ちゃんと名乗り名刺をくれる方もいれば、盗み聞きのように私達が話している脇にマイクを忍ばせてくる奴もいました。
まぁ、風体からしてちゃんとしたテレビ局や新聞社、という感じではなかったですが・・・
聞かれれば答えるし、分からないことは分からないと受け答えしました。
ただ、「盛り土」の事は答えませんでした。そもそも知らなかったですし。
なぜ答えなかったかはまた後日書きます。
翌日もボンジャスのメンバーと動きました。
熱海で活動するための拠点探しをして、その後今度は国道から被災地へと向かいました。
水葉亭さんの辺りだったと思いますが、その辺りに車を止め歩いて行き、元伊豆山タクシー脇の階段から現場を見ました。
きっと、一生忘れない。
泥が背丈以上の高さで、岸谷本線の入り口には腕を広げても足らないほどの石がある…
あれが転がってきたらひとたまりもないな。そう思いました。
ここでも横にいた新聞社に話を聞かれ、一緒にいたボンジャスメンバーの一人、VEGA-Tさんが前述のマイクを差し込んでくる奴に睨みを利かせてくれていました。
VEGAさんは俺の脇で何も言わず、守ってくれて、新聞社が話を聞き終わるまで待っていてくれた。
いくつもの被災地で支援をしてきたからこその寄り添い方だと感じた。
猪洞で「インタビューライブやろうよ!」と話したこと、忘れていません。
あちこちで取材を受けているので今までの話の刷り直しになってしまうけど、いつか必ずやりたいと思っています。
・あとがき
他にもSNSで多くの方の励ましや心配してくれる声が届きました。
中には『被災者ぶるな!』みたいなコメントだったり、ちょっとした考え方の相違で叩いてくる人もいて嫌な思いもしましたが…
次回は数日間で自分が感じたことをもう少し掘り下げていこうと思います。