作品の一部要素だけ好きな場合、それってファンって言えるのか問題
家人曰く、自分はクレヨンしんちゃんのホラー回が好きなんだけど、果たしてそれはクレしんが好きと言えるのか?と問題提起してきた。
※おおむね、90・0年代ロボットアニメ話になってます※
部分が好きで、作品も好き
僕自身を振り返ってみると、すぐ思いつくのが、21エモンの宇宙以降の回が好きである。
というと、家人は、あなたは21エモンの宇宙回が好きというよりも、藤子FのシビアなSFが好きなのでは?と。言われてみれば確かにそうである。
だからといって、家人はクレしんのホラー回以外の大多数の回を否定はしないし、僕は僕で21エモンの地球シーンがなくても構わないとは思わない。むしろ、僕も家人も、自分らが好きな要素を成立させるためには、大部分のそれ以外の要素を容認する派である。かといって、それ以外の要素を視聴するかというと、まあ惰性で観るのかなと。
そこから話が飛んで、エヴァンゲリオンに。少々お話が蛇行しますがご容赦ください。
部分が好きで、作品はそこまで好きでもない
当時、エヴァっぽいアニメ、つまりフォロワー作品が多数作られたが、その中で記憶に残っているのが、エウレカセブン、ファフナー、ラーゼフォンあたりだった。
リアルな巨大ロボと、シャレにならない世界設定、そして少年少女がすったもんだする、という点は踏襲しているが、それぞれにクローズアップするエヴァ要素はバラバラである。
そして、視聴者が食いついた要素もこれまたバラバラである。
まずエヴァンゲリオンから
私がエヴァンゲリオンで好きな部分は、ヤシマ作戦までのミリタリーマシマシ成分とか、劇場版でネルフ本部が襲撃されて白兵戦になるとことか、第三東京市が防衛体制に入って、防護壁がせり上がったり武器が出て来たりという演出とか。
あとは、特撮の演出をベースにしたカメラワーク、エヴァと使徒の戦闘の撮り方など、ここは特撮ファンがおいしい部分で、そこはまあまあ味わうことが出来た。
スタイリッシュなデザインワークや、必要以上に細密な描き込みも惹かれる要素ではあるが、そこまで強いものでもなかった。
ぶっちゃけオカルト要素はそこまで食いつけなかった。というのも、それ以上にオカルトに詳しい派、有り体に言えばムーの読者だったから、死海文書とか言われても、あああの汚い書き付けか、ぐらいの感想しかなかったのだ。つまりオカルト成分はただの虚仮威しで、オカルト好きが食いつけるほどの濃度がなかったといえる。
そして人間模様は、まあ比較的ダークな、汚い大人のやりとりとか、まあ嫌いじゃないけど、逆に子供らのなんやらかんやらはあまり気に入らなかったのは同世代じゃなかったせいでしょうか。とにかくその部分もそこまで魅入られるものはなかった。
シナリオも、要所要所にツボることはあっても、トータルでは最悪。オチ考えてから制作始めてよ(怒)おめでとうってナニ!?
そんなこんなで、続編が出れば付き合い程度には観てきたが、ぶっちゃけもう惰性の域になっている。これは、クレしんや21エモンと違って、エヴァが好き、と言える要素がない。追加のコンテンツがあっても、前記二作とは違い、エヴァは観ても観なくてもどっちでもいい存在なのだ。
実のところ、世のエヴァファンと呼ばれる人も、ここだけが好き、という手合いがほとんどなのではなかろうか。要素のかなり多い作品がゆえ、惹き付けられる属性持ちも多種多様である。ただその衝撃が大きかったがために、作品そのものが好き、と誤認あるいは容認しているんじゃなかろうか。
エウレカ・ファフナー
エウレカとファフナー、それぞれ一作目のみ視聴。実際の家人との会話ではわりとさらっと流しています。
エウレカは、オシャレなトランス音楽とスタイリッシュなロボと波乗りアクション。そして世界の陰謀に絡む人外の少女と少年の逃避行という、わりと好物の設定ながら、オチが最悪で俺的にアカン評価になった作品。
この作品、シナリオがエヴァとは別な意味で不親切で、ぶっちゃけアニメファンには絵的に気に入られればいいのかなと思った。
褒められる点としては、透明感のある主題歌や音楽。これにかなり助けられている部分が多いんじゃなかろうか。僕も好きです。
キャラはちょっと好みが分かれるところか。僕はそこまでこだわらないので加点も減点もそれほどは。
アゲハ構想という、ぶっちゃけ人類補完計画のパクリぽい大計画があって、そこにヒロインが大きく関わっている(実際は主人公も)というのはヒロイックストーリーとしてはお約束だ。
しかし、いくら本家が補完計画をうやむやにしてたからって、アゲハ構想まで訳の分からないものにする必要なかったじゃんと。牽引力としてボカすのはアリだけど、まるきり意味不明なのはちょっと、いやかなり解せない。
というわけで、作品が好きと言えるほど、固有の要素もシナリオも愛せなかったので、続編は見てない。というか冒頭を観てゲンナリした。なにあの反日アニメ。沖縄独立?しらんがな。さようなら。
ファフナー……。なんと言えばよいか。鬱アニメですよね。
冒頭の、少年少女が南海の楽園でキャッキャウフフする傍ら、大人たちはひっそりと外敵と戦っている。せめて子供のうちだけは、幸せな日々を送らせてあげたい……みたいな鬱全開の設定ですね。
登場人物の少年が愛読しているマンガ雑誌は、実は実父が隠れてこっそり書いていて、島の大人がそれを印刷して、店頭に置いているのだった。このエピソードをよく覚えているのは何でだろう? 漫画家というのが琴線に触れたのかもしれないが分からない。
ちなみに、同様に失せてしまった文化を自力で継続させるモチーフは、洋画でもありますね。(冷戦終結後もその事実が受け入れられないor知らない東欧側に住んでいる老婆がいて、その息子?孫?が、老婆のためにテレビ番組を友人たちと一緒に作るというほっこり話と記憶している)
まず最初から鬱トラップ仕込んでるのが見え見えなの個人的にどうかと思うし、あまり好き嫌いの少ない僕でもあのキャラデザはちょっと……
メカもそこまで愛せるデザインだったかと言われれば、ほとんど外観覚えてなかったりと、全力で愛のない感想ばっか出て来る。
終わりまで観ても、なんかよくわかんなかったなあ、という。でも記憶にはかなり残っているので、制作側としては一応成功なのでしょう。とりあえず、記憶に残ったのはパパのマンガ本と、鉱石になった妹、といったところでしょうか。好きな部分はなし。というわけで、続編は見なくていいっす。
ラーゼフォン
やっと本題に戻ってきた。僕も家人もこの作品は好きだ。監督の出渕裕氏を高く評価していることもあるが、エヴァフォロワー作品の中で一番完成度が高いからだ。
私など、設定資料集やイラスト集、劇場版DVD、ノベライズ小説にゲーム版も集めたぐらいなので、好きと言って差し支えはない。
特にキャラデのイラストレーター、山田章博氏にいたっては、我々の青春時代にトップイラストレーターとして人気を誇る一人だった、雲の上の人である。なんてすばらしい。家人など、氏の描かれたミスティックアークのパッケ絵を模写するほどである。そのぐらい、ヒーローなのである。
そんな氏が、昨今の絵師買い叩きのアオリを受け、まともな仕事がめっきり減ってしまったのが残念でならない。直近の画業といえば、十数年ぶりに発行された十二国記の装画が記憶に新しい。そのちょっと前は、スマホ版ファイアーエムブレムにキャラ絵を提供していた。その際、差分が別の絵だったこと、アナログ画だったことが話題になったが、なんとも切ない話である。
監督の出淵裕氏が、ラーゼフォンのムックに掲載された、庵野氏との対談で語っているが、出淵氏曰く「俺ならエヴァをこう作る」的な思想で作られたのがラーゼフォンということのようだ。
ラーゼフォンは紛う事なきエヴァフォロワー作なのだが、エヴァのイヤな部分が凝縮してるので嫌い、という人がそこそこいる、と家人が言っていた。
エヴァのイヤな部分といえば、ドロドロの人間関係だろう。絵的にグロいのなんてすぐ慣れる。確かに、ラーゼフォンにはドロドロだったり陰謀だったり複数の組織だったり、と、そういうのが苦手な人が多いことは理解している。だがしかし、この作品の特筆すべき利点・高評価点なのは、この人間模様やストーリーの部分なのだ。
ラーゼフォンは古代兵器で、ひと目でライディーンと、勝利の女神ニーケーをオマージュしたものであるとわかる。勝利の女神のモチーフは、主人公の所属する組織TERAのエンブレムにも見ることが出来る。この点だけでも、この組織が、その見た目よりもオカルト寄りであることを暗喩している。
TERAは現用兵器から進化した、今と地続きなSFミリタリー感を覚えるデザインコンセプトになっており、この点も個人的にはプラスである。大きくプラス、というほどではないが。
敵であるムーリアンはギリシャベースのデザインセンスや文化を持つ異生物として表現されているが、血が青いという設定も好みである。この設定をギミックにした回は、トラウマ回とも神回とも言われるが、その演出は鬼気迫るものがあった。あんなものが書けたら、と今でも思う。
結局、ラーゼフォンに関しては、おおむね全体的に好きなので、これは普通に好きと言っていいやつだった。この作品は、しょっちゅう放映時間が変わったりして、通しで見た人が少なく、それが低評価にも繋がっている不遇な作品である。同時期のゼーガペインの方が、完成度は低いのに高評価である。出淵裕氏はとかくこのような不遇な目に遭いやすいのだが、アマプラなどで配信されて再評価されて欲しいと願っている。
ついでにゼーガペインの話でも
放映当時、ゼーガも見ていた。ゼロ年代のアニメは比較的鬱展開なものが多く、ゼーガペインもかなりの鬱アニメだった。
でも当時の僕は、XBOX360のゲームも買ったし、CDアルバムも買ったし、プラモも買ったし、限定品ロボット魂も買っていた、一応のファンと言える。
サーバー内の仮想空間に暮らす人々、現実は破壊し尽くされた廃墟、一定期間でリセットされる記憶、敵との戦いで朽ちていくデータ化した人間たち。CGでキラキラ輝くメカ、とかなり僕の性癖にヒットする要素の多い作品だ。
とはいえ、シナリオはさほど評価する点は少なく、鬱展開ありきの構造にチープさも覚える。完成度としては、ラーゼフォンより遙かに下、というのが私の評価だ。ぶっちゃけ雰囲気アニメの類いである。にもかかわらず、放映から10年を経過してもまだファンが活動をしているのは、刺さった人が少なからずいたということだ。
今の人には受け入れにくいかもしれないが、ゼロ年代とはそういう雰囲気の時代だったのだ。MMORPGが隆盛を極め、人々がサーバーでの暮らしに触れはじめた時代、僕もその一人だった。
作品の一部要素だけ好きな場合、それってファンって言えるのかといえば
一部が好きであっても、それ以外の部分も容認出来る、コンテンツそのものを肯定出来る、追加コンテンツがあれば追っていきたい、そう思える時は、
やっぱ「好き」だと言っていいんじゃないかと僕は思う。
まあ、お茶の間の結論もおおむねそんなカンジで。
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