病気のことで迷惑かけても謝る必要はない。

「謝らない」私は4年前の山形の研修でそう決めた。
WRAP(元気行動回復プラン)でお泊まり研修のことである。


私は研修の途中で気分が悪くなって勝手にいなくなったり、寝込んだりと心配をかけまくったはず。けれど、次の日の朝のミーティング、これからみんなが自宅へ帰るときに、何かひとつ成長した物を持ち帰ろうとなったときに、私は「昨日のことは謝らない」と決めた。

もちろん、申し訳なく思っている。けれど、それを引きずってもしょうがない。

最近そんなことがまた起きた。

とあるZoom読書会の日。
元々具合が悪かったので、大丈夫かなと心配していたが、どうにもみんなの会話が私の苦手なジャンル(福祉や障害のある子の話)になっていったので、いよいよ気が滅入ってきて、画面を消す。しばらく経って、どうにも気が保てないので、無言で途中退室してしまいました。

こんな自分が嫌で嫌で、大泣きして、インスタグラムに現実逃避して。
でも、この時も謝らないと決めた。

私が病気や繊細さのことで謝るとする。するとみんなは「大丈夫だよ、気にしなくていいよ」といってくれるだろう。
最近友人にそう言わすことによって、構ってほしいという欲を満たしているのではないか。あるいは、自分を卑下することによって自分を大切に扱っていないのではないかと思うようになった。

あえて何も言わない。

私は一人で堪えよう。

私のことを読書会の友人たちは理解してくれているし、そこにあえて手を加える必要はない。

黙って見守ってくれるみんなを信じよう。


本当は大丈夫?って言ってほしい。
けれど、それだと自分は成長しない。
転んだら自分で立ち上がる方法を身に付けられない。
差し出す手を払のけて、へっちゃらな顔をしたい。

読書会のあと、ある方がフォトレコードで参加者の似顔絵を描いてくれた。
そこに自分がいた。

・・・嬉しくて、号泣しました。


私の話はしかる場所で、しかる人やしかる文章で伝える。
そう我慢していたのも、自分の中では小さな一歩。

病気や繊細さは私のせいではない。悪いことではない。
むしろ、友人に気を使わせてしまうのも申し訳ない。
そして、案外友人たちは心配してくれているのだ。

謝るといろいろ損をするのではないかと思うようになってきた。
特に「自分を傷つける」これがすごく大きい。
人とぶつかった時、素直に謝れるのも、もちろん大事。
けれど、障害者にとって、特に健常者と同じ目線で語りたい時、
病気にことでいちいち謝っていると、キリがない。
自分の中では「こんなこともできないんだ」と落ち込むばかり。

だから、それをやめてみる。

すごく勇気のいることで、相手を信じていないとできないこと。

・・・この気持ち伝わるかな?なんて書いているけれど、どうでしょうかね。


今度会ったときに、実はねーと笑い話にすればいい。