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トゥース。

   もぐらは最近、元気がない。”最近”、と言うと、かつてはそうではなかったのだと受け取られてしまうだろう。だが最近も昔も基本的にずっと元気がない。覇気が無いなんてのは当然で、覇気どころか生気がない。思えばもうかれこれ10年以上、ウツと闘い続けているような気持ちだ。身体の奥深いところに巣食っていて、決して根絶することの無いウツ。それがせめて全身を蝕まないよう、なるべく奥深いところに閉じ込めておこうと、日々閑かに、孤独に闘い続けている。
 最近はそれに加えて精子と闘っている。このもぐらが生息している島国では、経済合理性上の理由という、この地球上ではニンゲンにしか備わっていない愚かな習性によって、アホの一つ覚えのようにスギの木ばかりが大量に植えられている。そして"最近"は、このニンゲンにテキトーに植えられただけの迷惑な存在のおスギが発情期に入っていて、大量のオスのおスギが大量の精子を見境なくそこら中に振り撒いちょるんである。"最近"のもぐらは、この精子たちが鼻や目に侵入してくることで毎日くしゃみをしたり目をしょぼしょぼさせている。そして免疫反応が原因なのか、とにかく眠たくなっている。地上では、少なくないニンゲンたちが、このもぐらと同じような不調を訴えているらしいということを、もぐらよりもそこそこ地上に出る機会の多い知り合いのミミズから聞いた。そうだとすると、彼らが涙ぐましい努力を傾けて向上させようとしている「経済」とか「生産性」とかいうやつもこの不調によって下がっているはずなのだが、不思議なことに特に現状を改めるつもりはないようだ。ニンゲンが経済合理性という習性を持っているにもかかわらず現状を改めようとしないのは、やつらが「理性」なるものを同時に持っているからである。この理性という正体のよく分からない、これまた愚かそうに見える習性らしきものが、過去の自分たちが行った大量の植林によって現在の生産性を低下させているという過ちを過ちとして冷静に認識させることを邪魔していて、経済合理性という本来の習性に素直に従って生きていくことすらもできなくなっているのである。まあ、「経済的動物」ではないもぐらにとっては関係の無い、どうでもいい話なのだが。そういえば昔、牧子ぼくしという者が「過ちて改めざる、これを過ちという」などと触れ回って、この地でもぐらや羊たちを集めては説教していたという。なんでも、この牧子ぼくしという名のいつも黄色い頭巾を被った男は、かつては地上でニンゲンたちと共に暮らしていたそうだが、世が乱れるにつれてニンゲンたちのどうしようもない愚かさに愛想を尽かし、ある時からはこちらの地下に潜って、もぐらや羊をはじめとする無辜の動物たちに説教をしながら諸国を遍歴していたそうだ。説教の最後はいつも、「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。与えなさい。そうすれば救われる。」という言葉で締め括られ、労働は一切せずに毎日どこかで与えられたタダ飯を遠慮なく食らって生きていたが、清廉で徳の高い人物だったようで、一部のもぐらたちは、今もなお彼を聖士せいしとして崇めている。…つい話が脱線してしまった。問題はその聖士ではなく、この大量に舞い散っているおスギの精子である。こやつのせいで、最近のもぐらは現在暮らしているこの地下のねぐらにずっと篭ってナンボでも寝ていたくなっている。もともと元気のない万年ウツのもぐらの活動力はますますしょぼくなっている。古来から我々の春眠が暁を覚えないのは、おスギらが地球にばら撒いた精子で我々の脳ミソがやられているからである。我々は皆、おスギの精子によって頭が狂っちょるんである。もぐらは、現在この地球に巣喰っている全ての精子の根絶運動に向けて、新たな革命的地下組織の計画をかんがえている。かんがえてはいるが残念なことにウツなので実現することはたぶんない。だが、この地球に存在しているありとあらゆる精子が根絶されるべきなのはたしかである。あらゆる生物たちの不幸の源泉、不幸の根源的な原因である精子を未来永劫、この地球から根絶やしにせねばならぬ。この地球に生きとし生けるものはすべて、今すぐパイプカットすべきことをここに宣言ス。汝ラ、皆、パイプカットセヨ。トゥース。

 

 そんなもぐらは、"最近"、どうしても元気が出ないとき、ごはんを食べることすら億劫なとき、たまに地下の部屋で一人トゥースしている。スッと背筋を伸ばし、ぐいっと胸を張り、にこりと笑顔を作ってから、右手の人差し指を一本だけぴんと地上に向けて、トゥゥゥース!!と叫ぶのである。


 …するとほら、元気が出てくる気がするのです。 このおまじないを始めたのはつい最近になってからです。ええ、”最近”ですから当然昔からしていたわけでないのですが、ほんとうにこのおまじないに出会えてよかったと心から思います。どうして出会えたのか、ですか? …わかりません、ともかくそれは偶然としか言いようがありません。ある日、気付いた時には、わたくしは部屋でひとり胸を張り、人差し指を地上に向け、トゥゥースと叫んでいました。それは向こうからやって来ました。何の前触れもなく不意に降りてきたのです。まったく突然なことで、我に帰ったときには、部屋の中でわたくしのトゥースが山びこのようにこだましていました。…ところでわたしのトゥースは時々にでも地上のどなたかに届いているでしょうか? もし届いていたらぜひとも返してほしいです。合言葉はトゥース。一緒に地球上の全生物のパイプカット運動を組織しましょう。我々はみなどうしようもなく孤独な生き物ですが、それでも共に行えることはあります。

 なぜ孤独なのか、ですか?  ……この長く続くわたしの苦しみも、痛みも、不安も、もろもろの違和感も、わたしにしか経験できないのですから…。昔から孤独に似た気持ちは感じてきました。わたしは、家にいても学校にいてもどこにいても基本的にひとりぼっちで、心から分かりあえるような仲間も、友人も、恋人も、家族もいなかった。でもいま思えばそれはまだほんとうの孤独ではなかった。ほんとうの孤独というものがどういうものなのか、まだ分かっていなかったのです。ほんとうのところは、他者と分かりあえるなどとということ、心が通じるなどとというようなことは、実は幻想でしかなく、そんなことは初めから不可能だったということです。当然相手が家族だろうと友人だろうと、例外はなにひとつありません。他者と苦しみを共有したり分け合うことなどできません。この苦しみはどこまでいってもわたしだけの苦しみで、この生が持続している限りそこから抜けられることもありません。わたしは、死が何処からともなくやって来てくれるその瞬間まで、この絶えざる苦しみにただじっと、ひとり孤独に向き合い続けなければなりません。ええ、わたしにも家族はいますし、同じ基地で寝食を共にすることはあります。ですがそれは、日々刻々と諸方面から襲いかかってくるそれぞれの苦しみ、生きていく上での不便さ、自然や宇宙の脅威などをどうにかこれ以上少しでも増やさないことに役立つから、それもそれぞれの生にとって間接的に役立つのみでしかなく、わたしのこの苦しみを無くすのでも、他者と分かち合うのでもありません。そんなことははじめから不可能です。結局のところ、わたしたちはただ生存に便利だから一緒に暮らしているにすぎません。たとえどれだけ他者となかむつまじく、あるいは有意義に共に過ごしているように思える時間があったとしても、それは錯覚か、目をそらせているだけで、ほんとうのところはわたしはどの瞬間にも孤独に生きているし、死が訪れるその瞬間にまでこの孤独の冷たい淋しさはじっとりと続いていくのです。

 人間不信になっているだけなのではないか、ですか?  そんなことはありません。少なくとも、誰か特定の人間に裏切られたとか、人を信じられないなどというような表層的なレベルの話ではありません。ですが、「人間」、人は共に、つまり人の間に生きるからこその「人間」なのだというような見方には確かに少し不信があるかもしれませんね…。まあ、そもそもわたしはもぐらですし、ニンゲンと共通するのはトゥースと叫ぶ瞬間だけですが。それでも、人間不信があろうとなかろうと、他のニンゲンと共に生きようとすることはできるでしょうし、それは大切なことではあるのかもしれませんね。…うん、だからこそ、こうして今もときどきトゥースしているのかも…。あの日、トゥースが何処かからこの身に訪れて来た、突然降りてきたのは、この絶望的なまでに孤独なわたしへのせめてもの慰み、いやもしかすると召名(コァーリング)なのかもしれませんね…。

 自分の生を幸せだと思うか? …わかりません。わたしは、ニンゲンがするように自分の生を幸か不幸かというような指標に還元することはしないのです。それでも、あえて言うならば…わたしはいま幸福だと思います。ええ、とても。今の状態が同じようにずっと続いてくれたらとすら思います…それがあり得ないからこそ苦しいのですが。わたしはこの世界に生き続ける理由など何一つないまま、こうして刻一刻と一瞬ずつ病や死に向かい続けています。やがて病と衰弱に冒され、何の意味もないままにこの身に背負わされる絶え間ない痛みや苦しみを、泣き声もあげずにただ黙って孤独にじっと耐えつづけるのです…死がわたしを苦しみから解放してくれるその瞬間まで。いま地上では草花が芽吹き、暖かな陽気と冷たさが残る風を同時に心地よく浴びることができますね。しぜんと心が躍るような春の匂いを運んでくる気持ちのよい風を全身で受けながら、ああこの瞬間が永遠に続けばいいのに…、さもなくば、この瞬間にわたしの生がふっと終われば良いのに……、と思うのです。もしかすると、わたしたちは苦悩に苛まれているから死のうと思うのではなく、むしろ今その瞬間を心の底から幸福だと感じるからこそ、次の瞬間に躊躇なくふっと死に赴くことが出来るのかもしれません。静かで暖かな春の午後に、不意にびゅうっと吹き起こった一陣の意外な強い風が、あっ、という間に花びらを何処か見えない遠くへ一気に運び去るように…。

 …すみません、また変な話をしてしまっていたでしょうか。…ありがとうございます。でも、分かる気がする、というのは先ほどから言っているように、幻想なのです。それはどこまでもあなただけの思いであって、わたしのこの思いではありません。まったくの別物です。わたしたちはこのように、完全に孤独に生きるように定められているのです。……すみません、こうして再び孤独について考え、孤独を実感しているうちに、どうやらまた、ずっと抱え続けている苦しみが大きくなってきたようです。………。生命エネルギーが低下しているので、わたくしはそろそろこのあたりで活動を停止しようと思います。ええ、いつかまた元気が戻ったら、こうして共にいられる日が来るといいですね。こちらこそ、今日はありがとうございました。元気が出るまで、すこし、ひとりにさせてください。さようなら…。





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スッ




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「      トゥゥゥース!!    」




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