『ザリガニの鳴くところ』を読んだ話

ディーリア・オーエンズの『ザリガニの鳴くところ』を読んだ。幼少から一人で湿地の小屋に暮らす少女の物語だ。

私が読んだ小説の中で、これほどに胸が痛くなる作品はなかったように思う。この小説には別れの場面が多く使われている。新たに人と出会っても、そこに知らず知らずのうちに別れを見出してしまう主人公がいる。その姿を客観的に見ることで読者に主人公の孤独が伝染する。

孤独といえど、主人公は一人ではなかった。彼女の住む湿地には多くの生き物が存在し、彼女に生き死にについてその生をもって伝えた。これがもし、主人公の住む場所が湿地ではなくコンクリートに囲まれた半地下だったり、町の喧騒から離れた路地裏だったりしたなら、彼女は生き死にについて多くは考えなかったろうし、自然の美しさについて問うようなことはなかったろう。

言わずもがな、彼女の人生を変えたのはボートの少年との出会いだろう。彼が彼女と関わろうとし、彼女に文字を教え、学問を教えたことで、彼女の知的好奇心や美しさは洗練された。彼女は彼への感謝を忘れはしないだろうし、彼に抱いた気持ちは全くそのまま生涯続いたとは言えないが、一緒に生活を営むという形で彼女の中で愛として蓄積を続けるようになった。

この物語は時代が交錯し、視点がめくるめく変わりながら続いていく。最初は事件の被害者のことなど子供の頃の様子しかわからないのに、裁判の時には主人公の感情、町の人々の感情をはじめ、客観だけでなく少ない人の主観的感情まで読み取ることができるようになる。

この小説の中で分からないことがある。裁判中の主人公の感情である。「出たい」「家に帰りたい」という感情は往々にしてわかりはするが、最後までこの小説を読んだとき、裁判中の彼女の心の声がどうしても気になってしまう。

もうひとつ、ボートの少年が裁判中に主人公の真実を知ったならどうしただろうかということだ。その場合、結末までの流れは変わらないだろうと思う。しかし、真実を知ることで彼が心の拠り所を失ってしまうだろうとも思う。

無責任にnoteを書き始めたのは他ならない私自身ですが、この小説はなぜか私の心を必要以上にえぐっていく小説でした。だからとは言いませんが、苦しさを思い出してしまい、言葉が完全に出てこないという状態になってしまいました。ここまで、六割も言いたいことが言えていないと思います。なぜこんなに苦しくなったのか私にはまだわかりません。まだ未熟なのかと思います。少なくともこんな言葉で片づけてしまえるくらいに未熟であることに変わりはないと思います。

一年後、もう一度じっくりこの小説に向き合ってみたいと思います。苦しさをもう感じないかもしれないし、逆に苦しすぎて辛くなるかもしれません。だけど、なにか一年で私に変化があったら、少しでも成長できていたら、またnoteに記そうと思います。それまで、ここで記録を書き続けたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?