感触のないコンテンツを媒介に、交歓がはじまる
YouTuberという、コンテンツそのものには何の感触もない、私個人の文脈から離れたコンテンツを推しています。
推しというのは不思議なもので、しばしば、ある日突然その沼に落ちます。
酔える物語を見つけ、日常と離れたところで推しのことを考える。
ましてやYouTubeなんてプラットホーム。
そこに私の身体はありません。
むしろ身体性から逃げられるところに、その特徴がある。のかも知れない。
そんな感じに無責任にSNSで壁打ちを続けていたら、いつの間にか仲間ができていました。
同じ推しを推す仲間です。
オンラインオフ会をしていた
SNSで仲間ができたのには、コロナ禍という時期の力もありました。
みんなが家に引きこもらなくてはいけなくなったあの時期に、私は仲の良い相互フォロワーさんたちと、毎週オンラインで語り合う場をやっていました。
そこに身体はないけれど、時間はたっぷり、ともにしています。
あの時期、私たちはたくさんの時間を一緒に無駄にしました。
今はもう世界がふたたび動き始めて、頻繁に同じ時間を過ごすことは難しくなりました。
だけど時々、時間も空間もともにすることができるようになりました。
推しがイベントをするようになった、というのが一つのきっかけです。
(これについてはまた別の機会に語りたいです)
いつの間にか大切な存在になっている
今でもあの時にできた繋がりから生まれた輪が、私にとっては宝物です。
身体性は怪しいかもしれないけど、少なくともこのコミュニティには、ある種の精神性があるように感じています。
おかしな話かも知れませんが、たとえ推しから離れたとしても、関係を途絶えさせたくないファン仲間はたくさんいます。
感触のないコンテンツを媒介に、体温のあるような繋がりが生まれたと言ってもいいかもしれません。
このことは、推しに私たちが何らかの感触を見出そうとしているからじゃないかと、私は勝手に思っています。
隙のある物語から見いだされる、リアリティ。
そこを共有することによる連帯感。
ひょっとして、無から何かを生み出しているのはクリエイターだけじゃないのでは。
私たちも推しを媒介に、共有と共感の中から何かの質感を生み出しているのかも知れません。
けれどその質感は、ほかの誰かには理解できない、傍から見たらとてつもなく無駄なものなのです、きっと。