脚本家と俳優のパートナーシップ
今後、日本発のドラマ・シリーズが世界市場のメインストリートに躍り出るにあたって「脚本家と俳優のパートナーシップ」がひとつの鍵になるのでは、という予感がある。
最近で言えば「忍びの家 House of Ninjas」で世界的な成功を収めた賀来賢人氏とデイヴ・ボイル氏のパートナーシップがそれにあたるが、この作品においては賀来氏が2024年3月31日放送の「だれかtoなかい」に出演された際に「絶対に譲らなかった」と発言されていたことから、プリプロダクションの段階で安易な妥協や忖度をせずに脚本チームと徹底的に論議し、よくあるようなセクショナリズムの弊害が驚くほど存在しなかったのではないかと推察される。
セクショナリズムの弊害とは、脚本を軸とした場合「脚本は最低限のト書きと台詞で構成されるべきで、それを超える書き込みは監督や俳優の仕事を侵害する」「演出にも踏み込んだ絵コンテのような脚本は書いてはいけない」という日本独自のローカル・ルールを起因とするものだが、セリフ偏重になりやすい、解釈の余地が多すぎるこのフォーマットについては俳優サイドからも見直し要望の声が上がっていると聞く。
「忍びの家 House of Ninjas」については、賀来氏が企画発案者であり共同エグゼクティブ・プロデューサーも兼任されていたこと、脚本のデイヴ・ボイル氏が監督も兼務していたことから、事例としては特殊かもしれないが、今後は世界市場を狙う日本の実力派俳優がプロデューサーを兼務して脚本家を指名してチームを組む、という流れが来ると思う。
その時に指名されるのはどんな脚本家だろうか。
あくまでも自分の見立てではあるが、下記などが考えられるのではないかと思っている。
・俳優の情動と生理と言語への理解があり
・世界標準のドラマ文法とフォーマットを熟知し
・同じ海(創造性の海)に一緒にダイヴできる
俳優と脚本家は実際の表現レベルにおいては「演技する」「書く」と分かれてはいるものの、使う想像力の領域が同じ、もしくは非常に近接しており、パーソナリティ特性も似ている人が多いように思う。
自分の知る限り、俳優の多くはとても繊細で内向的だ。
「トークが上手く、外交的なイメージ」は彼らが作り上げたペルソナの一つに過ぎない。
言葉を選ばずに言えば「どこまでも繊細でナイーヴな露出狂」というのが俳優のひとつの本質だと思う(個人的な見解です)。
映像制作の現場において撮影担当と照明担当が最も深い関係を持つように、俳優と脚本家も同様に、もっとお互いの領域に踏み込んで、ラフに対話するチャンネルを設けてもいいのではないかと思う。
前述の「忍びの家 House of Ninjas」については、それこそセリフの細部に至るまで、俳優と脚本家の間で綿密なリレーがあったはずだし、その過程で同じ創造性の海に潜り掴んできたアイディアやディテールも多いのではないかと推測する。
俳優にとってディテールとは役と情況のイメージを掴むための取っ掛かり、クライミングにおけるホールドのようなもので、ルートに沿ってなるべく多くのホールドがあった方がゴールに辿り着きやすいし、逆にグラグラして崩れそうなホールドは使い物にならない。
映画やドラマの特典映像やオーディオコメンタリーで脚本家や監督が作品の世界観や裏設定ついて話したりしているのを聞いたことがあると思う。
その中でも自分が最もインパクトを受けたのは「ゲーム・オブ・スローンズ」の脚本家でもあり原作者でもあるジョージ・R・R・マーティンのインタビューなのだが、同作品に登場するキャラクターの内面や歴史について、まるで自分の目で見てきたかのように澱みなくスラスラと長時間話しているのを見て驚いたことがある。
おそらく彼らの中では数百数千という単位の時間が思索に溶けているはずだが、これは単に脚本家の才能とか資質とかの話ではなく(ジョージ・R・R・マーティンは明らかに異能の持ち主だが)、既に多くの人たちが言及しているように、それは「原作となるストーリーの創造とプリプロダクションにどれだけの時間と予算を割り振ったか」という話でもある。
プリプロダクションコストについては投資的な側面もあり、非常に悩ましい問題ではあるが、現在はDiscordやSlackなど様々なデジタル・コミュニケーションツールもある。
「俳優と脚本家が直接会うのは初回の本読みだけ、もしくは差し入れの時だけ」という話も聞くが、例えばプリプロダクションの段階においてはそれらのツールを有効活用し、もし俳優が登場人物の行動の理由とかセリフの意味が分からないのであれば脚本家にガンガン聞くべきだし(もちろん監督も挟んで)、そこで脚本家もガンガン答えられるだけの準備が出来ていたら、監督も画作りや他の作業に集中でき、クリエイティヴのスタート地点もぐっと上がるのではないかと思っているのだが、どうだろうか。
「それぞれの専門領域を尊重し、余計な口を出さない」というのは職業意識として非常に美しい一面もあるが、今後、世界市場を狙うにあたり、映像制作の現場においては新しいチーム・プレイの形が求められていると思う。
自分は10代後半から20代にかけての数年間、リアリズム演劇の舞台に俳優として立っていた。 その経験の中で「これって言う必要あるんかな?」と思わざるを得ない説明セリフや、「この流れとタイミングでこのキャラクターが本当にこんなこと言うんかな?」という不自然なセリフへの対応にかなり苦労した記憶がある。
「与えられた情況を現実と信じ込み、その役のリアルな内面の発露として眼前の事象に反応する」というのがリアリズム演技の目指すべきところなのだが(あくまでも自分が属していたところの話です)、セリフや行動については一つ一つ「正当化する」という事前作業があり、その役がその行動をするための内的な理由と生理と感情を考え、作り上げる必要がある。
だが中にはどうしても処理しきれない「説明セリフ」や「不自然なセリフ」というのも存在し(自分の感覚では海外の古い戯曲に多い)、その正当化の作業がうまくいっておらず、消化しきれていない場合は、演じている自分自身もどこか嘘臭くて手応えがなく、さらには舞台上のグルーヴにも良くない影響を与えてしまう。
これが稽古であればまだいいが(むしろ練習のためにわざと正当化しにくいセリフで構成されたエチュードもある)、本番の舞台となるとそうはいかない。
わざわざチケットを買って見にきてくれた観劇後の友人たちから厳しい叱責を受けることになる。 「この大根役者が!」と。
その屈辱的な経験から、自分が脚本を書く際には「なるべく説明セリフにならないように」「そのシーンのリアリティから逸れないように」と心掛けているのだが、自分が意識しているのは主に二点あり、それは「情況のリアリティ」と「サブテキスト」だ。
スティーヴン・キングの「小説作法(アーティストハウス刊)」という本があり、ここでキングは「情況のリアリティ」について、しつこいくらい何度も繰り返し語っている。
「私はただ人物の行動を見守って、そこで起きたことを書くにすぎない。はじめに情況ありきである」
「作品を書くのは地中に埋もれた化石を発掘するのと同じだ」
「情況が新たな情況を生み、各場面は有機的に結びつき、重なり合って、発掘された化石の細部を浮き彫りにする」
「情況が予期せぬ新たな情況を生むに任せて流れのままに話を進めるのである。人物の言動に嘘を書かない限り、筋の運びはいと易く、作品の成功は疑いない」
「何といっても、情況の展開が作品の命である」
「描写、会話、人物造形の技巧とは、煎じ詰めれば、目を見開き、耳を澄まして物事を正確に把握し、その見聞を同じ精度で明快に表現する手段である」
書き手として、どのスタイルを信奉するか、どの掟に従うかはもちろん自由だ。
だが自分は、この"掟"に従っている限り壊滅的なリアリティの逸脱からは逃れられるのではないかと考えており、常にマントラのように「情況のリアリティ」と繰り返し唱えている。
「サブテキスト」という言葉についてはいくつかの用例があるのだが、ここではスタニスラフスキー・システムでいうところの「ポドテクスト(露: подтекст)」、または「メタメッセージ(英: metamessage)」とも表現される「セリフ以外で伝達される情報」という定義で話を進めたい。 (日本語では「行間」と訳されることもあるが、それとはまた意味合いが異なると個人的には思っている)
「サブテキストで書く脚本術(リンダ・シーガー著)」という本があり、その序章部分にサブテキストの代表的な例が挙げられている。 映画「三つ数えろ」の中で、ほとんどの女性登場人物たちがフィリップ・マーロウ(ハンフリー・ボガード)を誘惑するのだが、その中の一つ、女性のタクシー運転手がマーロウを目的地に降ろした後で名刺を差し出しながら言うシーンを抜粋する。
タクシー運転手「いつかまた私を使ってくれるんなら、この番号に電話して」
マーロウ「昼に?それとも夜?」
タクシー運転手「夜の方がいいわ。昼間は働いてるから」
この二人のやり取りになぜ心惹かれるのかと言えば、セリフの裏側に込められた意図と感情を視聴者自身が能動的に汲み取ることによって、より大きなカタルシスを得るからなのだが、映像作品や演劇の場合、サブテキストは演技とセットで伝達される。
そしてシーンでの演技において、俳優は表と裏の感情、声の抑揚、間合い、姿勢、目線など、無限にある選択肢の中からベストなものをチョイスする必要があり、また脚本家にとっては原稿に書き切れなかったキャラクターの背景や断片的なイメージがある。
それらのサブテキストを交換しながら、さらに磨き上げられる要素はそれこそいくらでもあり、今後はこのプロセスの追加による俳優と脚本家のパートナーシップが重要なキーになると思っている。 (自分が「ハリウッド式脚本」に可能性を見出しているのも、その「セリフに頼らない」「演出をメインに書き込む」フォーマットの方がサブテキストを伝達しやすいからという理由による)
ハリウッドのドラマ文法はそれこそジャンルごとにいくつも存在するが、自分の好きなノワール/サスペンスのジャンルで言えば、やはりリアリズムとサブテキストを基調とし、そこに深みのあるキャラクター造形と無駄のないセリフ、豊かなディテール、そしてキレのいい構成などが極めて数学的に理論構築され、書き手にも広く共有されている。
古くは無声映画の時代から「見るものが何に心を動かされるか」を突き詰めて考えられた、普遍的な価値を持つメソッドと数学的理論の上に、書き手個人の創造性や閃きが踊っている。
もちろん日本がこれまで育ててきたドラマのフォーマットにも独自性があり、素晴らしいものがある。
しかしながら、今後、世界市場でオリジナルのドラマ・シリーズで勝負するには、まずは世界標準の文法とフォーマットをトレースし、自分たちのものとして取り込む必要があると思う。
第二次世界大戦後、日本のメーカーが欧米の製品を取り寄せてネジ一本に至るまで細かく分解・分析し、その構造を完全に把握した上で、独自の工夫を重ねた"Made in Japan"で世界中を席巻したように。
仕事の関係で知り合った中小企業診断士の方がいる。
その方は現役時代、日本の某メーカーの営業担当として欧米で日本製品を売り歩いてきた。
日頃お世話になっている御礼に、シーシャバーへお連れした時のこと。
「日本人はなぜもっと海外市場で積極的に稼ごうとしないのか。言葉の壁は高いかもしれないが、これまでのプロダクトアウトの考え方を捨て、マーケットインの戦略で勝負すれば、ハードにしろソフトにしろ、日本は再び世界市場を席巻できる。絶対に」と彼はぷかぷか煙を吐きながら呟いていた。
彼は現役を退いた後、中小企業診断士として起業家をサポートしており、当初は「若い人たちを励ます目的もあってサービス精神で言っているのかな?」と思っていたが、彼はずっと真顔で言っていた。
「余裕ですよ」と。
これまで書いたことを踏まえて、さて、それでは今後、自分はどうしていくか。 フラれ続けたシナリオコンクールに見切りをつけ、脚本開発チームを組んで企画書と第一話の脚本を発表し「いつでもピッチにお伺いします!」とぶち上げたものの、お座敷へのお声はかかることなく、膝で一升瓶を抱えたまま未来はまったく見えない。
礼儀は弁えているつもりだがそれほど愛嬌はない。むしろチャンスを得るために雑巾掛けからやろうとしてもウザがられる年齢になってしまった。
「自分にどんなアドバンテージが残されているか」と考えると、これまでの怠惰な人生が情けなくて泣きたくなるが、少なくとも数年間、リアリズム演技にどっぷりハマってきたという経験がある。
俳優の愉楽も苦しみも自分の中にある。 その知見をもとに何か出来ることはないのだろうか。
結論。
海外市場を目指す第一線級の俳優にパートナーとして選んでもらうために、そして自分と同じく無名の俳優たちとタッグを組んで商業ペースのリングに駆け上がるために、「俳優向けのデモリール用脚本」を無償でネットにアップしていこうと思っている。
現在、日本でも俳優個人の売り込み方法としてデモリールを制作する流れがきており、完全実力主義のオーディションも増えていると聞く。
本当に素晴らしいことだ。
この流れに乗りつつ、ライターとして「情況のリアリティ」+「サブテキスト」という自分が信奉するスタイルを突き詰めながら、デモリール用の脚本を提供していきたい。 彼らが「演じてみたい!」と心から思うような、彼らのクリエイティビティを触発するような脚本を、自分のために(そこで重要なフィードバックも得られるはずという目算もある)、そしてまだ見ぬ将来のタッグパートナーのために書けたらいいなと思っている。
自分の目標は変わらない。ただ「急がば回れ」という諺があるように、これが一番の近道なんじゃないかと思っている。
その過程で出会うべき仲間と出会えるはず、と信じている。
それと並行して、USD第一期のセールスを続け、「Writer's Sync(近日リニューアル&再プロモーション予定)」で自分と同じような目的を持つ仲間を探し、以前にポストした「未知の作品と書き手を発掘する映像企画の売り手と買い手の売買システム」の構築を進めていきたい。
本来であればどこかのシナリオ・コンクールに引っかかって、そこで気の良いプロデューサーさんと知り合って、コツコツと脚本を書いて生活していきたかっただけなのだが、最初の登竜門がまったく開かず、門の前に茫然と座り込んでいたら色々なヴィジョンが見えてしまった。
「こういう企画があったら...」「こういうシステムがあったら...」を少しずつ実現させていくその先に、自分の最終目標へ繋がるゲートもある。
はず。
たぶん。
「何様のつもりだアホw」という捨て垢からのDMを虚しく眺めながらも、自分が見てしまったヴィジョンを見なかったことには出来ない。 そして、そのヴィジョンには一人では辿り着けない。